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 不燃のはずの明治座でも数千人が亡くなっていた。周囲で焼け残ったのは、藤間親子が逃げ込んだその建物だけのよう。

「あたりには死体がゴロゴロ転がっていて、人間が焼け焦げた臭いが充満していました」 

3月の大空襲から2か月、5月25日には山の手が空襲される。翌日、麹町区九段では、焼跡での告別式が営まれていた。1945年5月26日撮影(提供:東京大空襲・戦災資料センター)

疎開先でも空襲を受け、九死に一生を得た

 3人で焼け野原を歩き、破裂した水道管をみつけると、母は急に少年のやけどした足に水をかけはじめる。

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「水をじゃんじゃん、30分以上私にかけてくれました。(母は)自分にかけずにね。それがなかったら、死んでいたか、やけどの後遺症があったと思います」

 寒い3月の朝、こごえる思いで水を受けていた藤間はこれで助かる。その後、5月25日の山の手空襲、疎開先の静岡でも空襲を受け、いずれも九死に一生を得ている。

 三度も空襲に晒された少年は、夏を迎える。ある日、砂利のある広場にわけもわからず正座させられると、置かれたラジオから人の声が流れてくる。何を言っているのかまでは聞き取れない。

「もう食べるものがなくて、栄養失調であばら骨が浮き出ているのは当たり前でした。赤ガエルなんかを食べていましたから。そのときは早く正座から解放されたい、それだけを思っていました」

東京大空襲・戦災資料センターに展示されていた絵画。女性は道端で、子どもの遺体に手を合わせている(提供:東京大空襲・戦災資料センター、作者:坂井輝松)

「我々は被害者だけれど、アメリカ憎しだけでもなかった」

 8月15日の玉音放送だった。少年には何の感慨もなかった。やぶ蚊に食い荒らされ、できものだらけ、栄養失調でやせほそった身体はどこを押しても血がにじむ。ノミやシラミ、ダニが住み着き、口や鼻、肛門からは回虫がはい出していた。砂利に正座し、足に血をにじませた6歳の子どもの記憶。

 それから79年。この仕打ちを受けた少年はいま、中学生の子どもたちに聞かせる身となったが、恨み節を語るわけではなかった。話の端々に、意外な言葉が混じってくる。

「一方的にではなくね、私は、みなさんと考えたい」

「我々は被害者だけれど、アメリカ憎しだけでもなかったんです」

 藤間は、10代前半のこどもたちに敬語で語りかける。彼の空襲や戦争の捉え方、伝え方は、押しつけを排そう、客観性を忘れまい、といつも注意を払っているように見えた。それは、このセンターの考え方とも通じている。

(文中敬称略)