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 あまりの熱気と火の粉によって、生きたまま自然発火する人たち、巨大な火が起こす風で空中高く巻き上げられる人たち。下町は運河の街。あらゆる水路に人が入り、顔だけを水面に出した。そこを火炎が焼き払う。冷たい隅田川へ飛び込み溺死する人、凍死する人、不燃を信じて逃げ込んだ鉄筋の校舎内で、地下壕で、閉じ込められたまま焼かれた人。家族だけでなく、集落そのものが全滅し、どこで誰が亡くなったのかもわからない有様だった。 

新大橋上空から見た深川・城東地域の焼け跡(提供:東京大空襲・戦災資料センター)

亡くなった人々の無念の上に作られた戦後の東京

 それは、0時過ぎから深夜2時過ぎまでのたった2時間半ほどの間に起きたこと。夜が明けてみれば10万人が亡くなっていた。広島原爆の被害に匹敵する、私の言葉などでは到底記すことのできない地獄の夜。戦意を削ぐための無差別爆撃の対価として、10万人の命が奪われた。

 食べるもの着るもの、日用品、働き方、すべて戦争遂行のために捧げ、耐えて暮らしてきた人々は突然殺されながら、亡くなったあとも大切に扱われることはなかった。人々は、日が昇ると、無残な物体として集められ、学校や公園をはじめ、街のあちこちに盛り土のように積まれ、穴に投げ込まれ、現実にフタをするようにして埋められた。熱い熱いの声も聞いてもらえず、なにも言えず消されてしまった男、年寄り、そしておびただしい女と子ども。この人々の無念の上に、戦後の東京の街はつくられていった。 

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隅田公園(浅草側)の仮埋葬地。おびただしい遺体をまとめて埋めた(提供:東京大空襲・戦災資料センター)

現代の中学生は『B29』が何かを知らない

 戦後、彼ら彼女らのかわりに、地獄をこえて生き残った人々が、ふりしぼるように話し、伝えようとしてきたこと。私が子どもの頃は、当たり前のようにメディアが報じていた。本稿を目で追っている方々に聞きます。今日のテレビ欄、どうなっていますか? 「東京大空襲」の特番、やりそうでしょうか?

 年々、東京大空襲の記憶は風化していっている気がしてならない。そこで今回は、風化を防ぎ、語り継ごうと活動を続けている施設、東京都江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」を訪ねてみた。スタッフの1人は言う。

「いまは『B29』と言ってもイメージできない子がいます」