79年前の今日3月10日、アメリカ軍の空襲により、東京の下町が壊滅的な被害を受けた。犠牲者は10万人、被災者は100万人にのぼると言われている。これが世にいう「東京大空襲」だ。

 近年、地上波で「東京大空襲」について放送する番組が激減している。戦争の悲惨な記憶を風化させないためにも、メディアは史実や証言を伝え続ける必要があるのではないだろうか。ここでは、戦争や戦後史にまつわる記事を執筆しているノンフィクション作家・フリート横田氏が、東京大空襲の被災者・藤間宏夫氏(85歳、取材当時)に取材した記事を改めて公開する。

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3月の強い風にあおられ、燃え広がった焼夷弾

 昭和20(1945)年3月10日未明、東京下町一帯には、木造家屋を焼き尽くすために特別に作られた特殊弾が1665トンも撒かれた。民家の屋根に触れるほど低空で飛ぶ約300機の巨大爆撃機から落とされる焼夷弾と呼ばれたその弾のひとつひとつは、空中でさらに細かい筒に分かれ、炎の尾をひいて地上へと向かっていく。筒にはゼリー状にしたガソリンが詰まり、地上で弾け、飛び散る中身が付いて燃え上がれば、水をかけても早々消えることはなかった。 

B29は超低空で、下の炎で真っ赤に見えた。何もかも押しつぶすような音を出して、次から次へと飛んでくる。その姿は怪物のようであった(提供:東京大空襲・戦災資料センター、作者:坂井輝松)

 ユタ州の砂漠に、下町風に長屋まで建てて――目標が軍事施設ではなく、どんな人々が住んでいる家か当然知り尽くした上で――投下実験を重ねたアメリカ軍によるこの弾の豪雨は、空っ風の吹く3月の夜を狙って東京下町に投下され、計画通り、木と紙でできた家々や細い路地で弾けてべったりと付き、道路に付き橋に付き、逃げ惑う人の身体に付き、背中でおぶわれる赤ちゃんの顔に付き、燃え上がった。強い風にあおられた火は、またたく間に大きくなって激しさを増し、一帯に広がっていった。 

1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾 ©石川啓次/文藝春秋

どこで誰が亡くなったのかもわからない有様

 防空法の定めを守り、逃げずに、容易に消えない火を人力で消そうとした人々は炎の中に踏みとどまり、そのまま焼かれた。ひたすらに逃げた人々のなかには、水気を求め川に向かって駆けた集団もあった。

 たとえば浅草から言問橋へ逃げ込んだ人々は、向こう岸、本所へ渡れば助かると信じた。そのとき、本所側からも浅草側へ渡ろうとする人たちと火の手が迫ってきたともいう。逃げ場なし。人々は橋の上で、駆けつけた消防車、隊士もろとも燃え上がった。