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厳しい外為法や規制のおかげで大儲け

 重要な取引きは、二階でひそかにおこなわれていた。不法小切手の売買だ。

 ランスコの初期の客のなかに、東京にオフィスをかまえるアメリカの大手商船会社があった。当時、銀行の金利は5パーセントだったが、この会社はそれ以上の金利で現金を預かってくれるところを探していた。この商船会社が〈バンク・オヴ・アメリカ東京支店〉のランスコ名義の口座に200万ドルを預金すると、ランスコはドルの小切手をヤミ市のバイヤーに売って、円を獲得した。

 1949年当時、激しいインフレによって、通貨は1ドル15円からうなぎのぼり。その対策としてSCAP(連合軍最高司令官)は、銀行の公式レートを1ドルあたり360円に固定する、という厳格な政策をうちだしていた(その後1ドル360円のレートは、1971年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領がドルを金相場と切り離し、変動相場制に切り換えるまで、ずっと固定されることになる)。

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 しかし巷では、厳しい外為法や規制のせいで、ドルの需要が急上昇。1ドルが480円から520円で飛ぶように売れた。グリーンバック(米国政府発行の法定紙幣。裏がグリーン)を売ろうとする人物にすれば、濡れ手に粟のもうけだった。

©AFLO

盗品と銘打って「底値」で小切手を転売

 ランスコの顧客には、米軍と契約しているアメリカやカナダの建築会社もあった。彼らもまた、政府発行のドル小切手を円に換えるにあたって、銀行より高率のレートを求めたことはいうまでもない。

 ランスコは彼らの小切手を、1ドル420円で買いあげ、巷で480円から520円ほどで売りさばいた。しかも、小切手の金額はたいてい1枚10万ドルを下らなかったから、ニックたちの会社は一度取引きをするたびに、笑いが止まらないほどもうかった。

 ランスコのもっとも顕著な業績は、架空の銀行を作ったことだろう。その名は〈テキサス銀行〉。資産も、債務も、法的準備金もいっさいなし。いかにも本物らしく見えるがじつは真っ赤なニセ物の書類と、実在すらしないテキサスの町の住所を刷り込んだ便箋と、小切手帳一式を印刷して用意しただけの、とんでもないインチキ銀行である。その大胆不敵さにかなうものは、東京中をさがしてもなかったはずだ。

 ランスコで急にまとまった資金が必要になれば、ザペッティは持参人小切手に一定の額を記入する。それなりの利益を得るには、最低3万ドルは必要だ。さらにその下に、「ハリー・S・トルーマン」とか「フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト」などとサインする。こうしてヤミ社会の人間に、額面の10パーセントで売りつけるのだ。