『ヘレディタリー/継承』(2018)、『ミッドサマー』(2019)に続くアリ・アスター監督の長編3作目『ボーはおそれている』は、『ジョーカー』(2019)でアカデミー賞主演男優賞に輝いたホアキン・フェニックスの熱演もありつつ、そのカフカ的とも形容される不思議な世界と物語によって再び熱狂的なファンを惹きつけている。

 カフカ的な不条理を確かに基本としながらも、映画の作りとしては、妨害される帰郷というホメロスの『オデュッセイア』的なプロットからは逸脱せず、かつ主人公ボーの「冒険」が進んで行くうちに、ボーの過去、とりわけ毒親的な母親との関係がしだいに明らかになっていくサスペンスとその解消、そしてそこになんともシュールな笑いというスパイスが加わって、実のところ非常に堅牢な構造を持った、見せる映画になっている。個人的には3時間を長くは感じなかった。

『ボーはおそれている』公式X(旧Twitter)より

アリ・アスター監督作品のミソジニー

 本稿では、この作品の中心的な主題に切り込んでみたい。以下、映画の内容にふれていくので注意されたい。

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 アスター監督の前の2作品『ヘレディタリー/継承』と『ミッドサマー』で気になったのは、そこににじみ出るミソジニー(女性嫌悪)であった。前者では娘を失って狂気とカルトに陥っていく母がホラー映画の核心たる恐怖の源になるし、後者はスウェーデンのカルト的なコミューンが主題になるとはいえ、男性が性的に(女性によって)略奪されてしまう恐怖をベースにしていた。

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『ボーはおそれている』は、影響力の強すぎる、毒親的な母モナと主人公ボーとの関係を軸とし、最終的にボーがその母の支配領域から逃れることができないように見える点において、ミソジニーが解消されるどころか、より強烈に表現されている。

 私はミソジニーという言葉を使うことで、アスター監督や『ボーはおそれている』を非難しようとしているわけではない。ミソジニーに限らず、差別にもつながるような情動と映画作品との関係を考えるにあたっては、映画がそのような情動を否定することなく利用しているのか、それともある種の距離を取ってそれを描いているのかは常に判断の余地のある問題だ。

『ボーはおそれている』は後者のような映画として評価できるのではないか。それは現代的なミソジニーを鋭敏に描き出し、それを徹底操作(心理学用語で、患者の無意識の抵抗をくり返し、徹底的に解釈すること)していると言えないか。それを本稿では検証してみたい。