『ボーはおそれている』で描かれる「毒母」と息子の関係
実際、『ボーはおそれている』のミソジニーは単なる普遍的なミソジニーではない。非常に現代的な、新しい条件下でのミソジニーである。そのことは、そのミソジニーの源泉になっている「毒母」の人物像から考えることができる。
息子に強すぎる影響力を行使する毒母には、それなりの歴史がある。例えばイギリスの小説家D. H. ロレンスの小説『息子と恋人』(1913)はどうだろうか。はたまた、日本では批評家の江藤淳が『成熟と喪失』(1967)で論じた一連の小説における母たちはどうだろう。
これらにおいては、母は基本的に「教育ママ」である。教育を通じた息子の階級上昇をめざす母たちだ。上昇というのは、父(夫)よりも上の階級をめざすということである。この背景には、経済成長と社会全体の富裕化があっただろう。息子は、しっかり勉強して階級上昇すれば、母の影響から脱することができるかもしれない。
このような毒母物語と、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-96)で表現されたそれは、どうも異質である。主人公碇シンジの母ユイは、優秀な科学者であったが事故でエヴァンゲリオンの中に取り込まれている。ユイは息子シンジの成長をおしとどめ、自分の胎内へとひきもどそうとする。これは、階級上昇して「男」になることを促しつつ、それでも自分の手元に息子を留めようというジレンマを抱えていたかつての母とはかなり異質だ。
私は著書『新しい声を聞くぼくたち』(講談社)で、このような新たな毒母像の背景に、経済成長と階級上昇がもはや前提とはならない、ポストメリトクラシー(ポスト能力主義)社会があったのではないかと論じた。
ポストメリトクラシーとは、実力社会でなくなったという意味ではない。そもそもメリトクラシーは、男子の階級上昇を基本とするという意味で性差別を含んでいた。ポストメリトクラシーは、そのようなジェンダーの区別を表面上は解消し、教育学者の本田由紀(『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版))の言うハイパー・メリトクラシーにも似て、コミュニケーション能力や感情管理能力といった能力を中心とする、徹底された「能力主義」である。
『ボーはおそれている』の母と息子は、基本的にはそのようなポストメリトクラシー社会における母息子関係を結んでいると考えられる。重要なのは、母のモナが(『エヴァ』では母が優秀な科学者であったのと似て)有能な実業家であり、どうやら一代で巨大な企業を興した人物であることだ。
この人物像は、家父長(男子)が世代を経て階級上昇していくようなメリトクラシー社会から、一代でジェンダーに関係なく階級上昇する(もしくは没落する)ような、ポストメリトクラシー社会への変化の表現であり、なおかつ女性であろうが関係なくそのような競争に参画できると言う意味でポストフェミニズム的な社会の表現でもある。
ハイパー・キャリアウーマンであるモナと、おそらくその影響によってうまく成熟ができず、都会のスラムの一角で病んだ中年となった息子のボー。この組み合わせは、そのようなポストメリトクラシー/ポストフェミニズム社会の縮図である。
「傷」を加えられたと思い込む男性たちの“新しいミソジニー”
メディア学者のサラ・バネット゠ワイザーは著書『エンパワード』(2024年秋に堀之内出版より邦訳刊行予定)で、現代的なミソジニーのあり方として「ポピュラー・ミソジニー」を指摘している。それは、「ポピュラー・フェミニズム」との鏡像関係、もしくはそれへの反応として出てきたミソジニーである。
権力や経済力を持ち、メディア上でも可視性を得た(ということにされている)女性たちのフェミニズム、これがポピュラー・フェミニズムであるなら、ポピュラー・ミソジニーはそのような新しいフェミニズムと女性たちによって「傷」を加えられたと思いこむ男性たちのミソジニーである。
日本ではいわゆる「弱者男性論」の一部が、このポピュラー・ミソジニーの一変奏と見なせるだろう(あくまで一部。ミソジニー的ではない弱者男性論もあり得るだろうという保留は加えておく)。