そのような意味での弱者男性ボーを、『ジョーカー』でやはり弱者男性を演じたホアキン・フェニックスが演じたのは、全くもって適切であった。だが、ジョーカーが銃での暴力をもって彼のミソジニーと社会への恨みを暴発させたのとは違い、ボーはひたすらに何かから逃げつつ、帰郷をしようとするも妨害され続ける。彼がミソジニーをこじらせて何かをするという構図ではなく、彼の弱者性がポピュラー・ミソジニー的な想像力の中で想像されているのだ。
そして最終的に、その全てが「毒母」モナの計略と手のひらの上だったことが明らかになり、弱者男性ボーには精神的な成長の可能性は与えられない。
(ついでに指摘すると、この作品は18世紀イギリスの小説家ローレンス・スターンによる奇怪な小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』も下敷きにしている。この小説の主人公トリストラムは出生時に産科医のミスで鼻を潰されてしまう。「去勢」が行われているのだ。冒頭のボーの誕生の場面はこの小説を参照しており、ボーの「去勢」された弱者男性性がそこで宣言されている)
この映画は『オデュッセイア』を逸脱しないと冒頭で書いたが、結末だけは逸脱している。『オデュッセイア』では、父であり王であるオデュッセウスは帰還し、彼の家に家父長的な秩序が回復される。『ボーはおそれている』にそれはない。ボーは母殺し──ポストメリトクラシー社会では、精神分析的な父殺しのあとがまには母殺しが据えられるのだが──に、少なくとも精神的には失敗する。
ここにはアスター監督の並々ならぬ悪意を感じざるを得ない。だがその一方で、アスター監督はパンフレットに所収のインタビューで、ボーが成長してしまったらこの映画は「不誠実な作品」になってしまうと述べている。
アスター監督の言う誠実さとは、本稿で素描したような母息子関係の旅路の果ての現在地にあって、ポピュラー・ミソジニー的な弱者男性の人物像がこのように誕生したとして、彼に安易な出口を与えることは現実に即さない、偽りの希望になってしまうということだ。その意味で、この作品は現代のミソジニーを「徹底操作」しようとするものとして評価できるだろう。
#ボーはおそれている
— 映画『ボーはおそれている』公式アカウント (@BEAU_movie) February 17, 2024
たくさんのご感想、観る前の期待をありがとうございます。
ちなみにアリ・アスター監督はアメリカでの本作のプレミアにお母様を招待しており、本編を楽しまれたそうです。どうぞ映画館におでかけください。 pic.twitter.com/Aw54SAZrSQ