突然、口座が凍結され、クレジットカードも使えなくなった
話がずれたが、一審が終わってから半年ほど経った頃、突然、僕らの口座が凍結した。判決に基づき、法的に口座が仮で差し押さえられたのだ。文章で見るとすごく重く感じるが、僕らは笑っていた。まず、夢を追いかけて海外に来たら借金ができたことだけでも笑えるのに、なんの前触れもなく口座が凍結され、クレジットカードも使えなくなり、キャッシュレス社会である韓国で現金生活になったのだから笑うしかないだろう。韓国語で言えば「オイオプソ」(飽きれる)という言葉がぴったりな状況であった。
この日から現金生活が始まったのだが、口座にあるお金も引き出すことができないので、手持ちの現金がない。友人に数万円を借りて、とりあえず日持ちする食材を買った。お米があれば死なないと思ったのだ。当然、その数万円はすぐに底を尽きた。一時の所持金は1000ウォン(約110円)だけになり、どうしたものかと思っていたけれど、周りの友人や知人が食材を送ってくれたりご飯を奢ってくれたりしたおかげで、今日こうしてこの本を書くことができている。助けていただいた方々には、この場を借りて心から感謝を申しあげたい。
人生はおもしろい。
たとえ所持金が1000ウォンだけになったとしても、なんとかなると自分を信じていれば、必ずいい方向へと進む。
その過程で、正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとか、物事を分けてみたり重ねてみたり、試行錯誤しながら自分なりの正解を見つけ出そうとする。そして、問いや答えが混沌としている人生をシンプルに整理しようともがき苦しむ。きっと死ぬまでそうやって生きていく。
だから人生はおもしろい。
情報を受け取る側は情報を選択する技量が必要
皆さんは、見えるものが全てだと思っているだろうか。
この場で言う「全て」とは正しさのことを意味するが、例えば、空気がこの地球に存在することは誰も疑わない。でもそれは目に見えていない。ではなぜ、空気が存在することが正しいのだろうか。それは、情報によって可視化しているからだろう。目に見えると人は安心することができる。だから正しさを求める。
でもそこに本当の安心は存在するのだろうか。僕は、安心を求めて信じた先に待っているものは絶望しかないと思っている。何かの情報を安心するためだけに信じるよりも、情報を自分なりの知識に変えた時、その先に安心が待っている。だから受け取る側は情報を選択する技量が必要であると言える。
普段、目にする情報の多くは、メディアを介して受け取ることができる。目に映る情報を選択し、どう受け取るかは人それぞれの自由であるし、情報を伝えるメディアもまた、どう伝えるかの自由がある。ただメディアが事実をどう捉えているかによって、情報の見え方が変わってくる。