訴訟の記事には「メンバーが一方的にスケジュールを拒否した」と…
実際に僕らの訴訟の記事を見てみると、事実ではない憶測で書いてある記事があったり「メンバーが一方的にスケジュールを拒否した」と書いてあるものも存在した。
もちろんそんな事実はないのだが、法廷で被告側の主張として議題に上がったことは確かだ。では、僕がこの本で話してきた内容を一度忘れて、記事の内容だけを見たとする。あなたは僕らのことをどう考えるだろうか。きっと、メンバーに問題がある、メンバーが会社を裏切った、そう判断するだろう。実際、ネットでは僕が挙げたような判断をする人も多かった。
反対に、この本を読んだ状態で記事を読んだ場合はどうだろう。情報を比較してあなたなりの答えを導き出すはずだ。たとえそれが「メンバーに問題がある」という答えのまま変わらなかったとしても、あなたの中で「メンバーが一方的にスケジュールを拒否した」という情報を一度考えたということに意味がある。これは、リテラシーの根本にある「情報を与えられる度に自ら考えること」ともつながってくるのだが、考えて終わるのではなく、その情報を与えているメディアの性質を理解し選択することまでを受け取り側がする必要があると僕は思う。
例えるならば、情報を料理、メディアを料理の提供者と置き換えてみる。料理が出てくるのを待つだけで、与えられた料理も口に入れて飲み込むことしかしない人よりも、料理を作っている人の味の好みを調べ、それを知った上で料理を味わう人では、その料理のことを理解する上で雲泥の差が生まれる。
時と場合によって各メディアの情報の見え方が変化する
僕の実感では、料理を味わって自分の感じた意見を言う人は多くても、料理を作っている人の味の好みまで調べている人は少ないように思う。つまり、メディアの性質やメディアがどう捉えているのかを考える人はそう多くないと言うことだ。実際問題、私生活が忙しければ、そんなことまで考えている時間などないと思うかもしれない。けれど各メディアが持っているエンターテインメント性がどのくらいあるのかを知るだけでも情報の捉え方が変わる。
テレビはエンターテインメント性が強いこともあり、ニュース番組を見ても情報を誇張していることが多い。そしてコメンテーターの感情も相まって受け取る側の判断を鈍らす。一方、新聞記事などを見ると、文字と写真で綺麗に要約されているから淡白な受け取り方ができる。どちらが優っているとかの話ではないが、時と場合によって情報の見え方が変わることは確かだから、受け取る側はそれを知った上で判断することが大事だろう。
そうして情報を自分の知識に変えることができれば、メディアやエンターテインメント、さらに言えば社会ともいい距離感を保てる人生が待っていると思う。