散々、世話になっておきながら、「カムバックの邪魔になる」そんな理由で人を殺した罪にしては軽過ぎるという批判もあったが、歌手仲間たちの克美に対する減刑運動も行われていた。克美は控訴をせず、判決が確定すると大阪刑務所に移送された。親子三代刑務官の坂本敏夫はここで克美と出会う。坂本の記憶は明確であった。
「前例のないほどのスピード審理で事件の記憶が新しいうちに判決が出たこと、さらに刑の確定からひと月余りで移送されてきたことで、克美のことはよく覚えています。
当時、私は大阪刑務所管理部保安課の処遇係長をしていました。受け持ちは第1区の15か工場で、就業している受刑者はおよそ700名。有名人である克美が来ることは事前に知らされました。受け持っている新入考査工場で処遇しなければならなかったからです」
大阪刑務所は4つの区に分かれている。新入受刑者は第1区の考査工場で概ね3週間ほどの新入訓練を受けさせていた。この間、分類調査と行動等訓練を行い、就業する工場を決めるのだ。
克美は東京拘置所のバスで護送されてきた。有名人であることから大衆の前で顔を晒すことが本人を苦しめるだろうという温情での護送方法だった。一方で、坂本が担当する考査工場では特別扱いせず、雑居房に収容し40名余りの新入受刑者の一員として厳しい訓練を受けさせた。
克美は前科前歴のない初犯であり長期刑であることから、第4区の印刷工場で就業させることが決定された。
刑務所の職員たちから“低くない評判”を得ていた克美
「刑務官はどれほどの有名人が入って来てもさわがないものです。ただ受刑者たちも獄中で目にした新聞や週刊誌で克美の殺人事件の概要は知っています。
そんな視線の中での克美は、振る舞い、自立態度、言葉遣いが極めてしっかりしていて、他の受刑者とは明らかに違っていました。印刷工場というのは、受刑者の中でも“仕事の出来る”処理能力の高いものでないと務まらないのですが、丁寧にこなしていました。
よくマスコミは、受刑者が仮釈放になると模範囚という言葉で持ち上げます。しかし、引受人がいない受刑者や暴力団関係者など仮釈放にならない満期釈放者でも、規則を守り、服役態度の良好なマスコミが言うところの『模範囚』は多く、全体で9割を占めていました。
いわゆる刑務所が評価する本当の模範囚というのは、まず犯した罪を悔い、謝罪の気持ちを忘れずに規則を守って自立し、言葉も態度も教養も身に着けて出所する人間のことです。そういう受刑者は全体の1割もいませんでしたが、克美はまさにそこに含まれていました」
縦社会の中での振る舞いは芸能界で培われたものだったのだろうか。少なくとも大阪刑務所の矯正職員たちから、克美は低くない評判を得ていたという。坂本はこうまで言った。
「人を殺した者の中でも、そうした“スーパー模範囚”はいます。私の知る中で言えば、たとえば死刑囚だった永山則夫でしょうか。刑死を待つ身でありながら、執筆から得る印税等で賠償も含めて被害者の遺族のことを考え、さらにはペルーの貧しい子どもたちのためにと、刑場の露と消える1時間前まで執筆に励んでいたのです。
克美も自分の犯した罪を猛省していたのでしょう。独房では朝夕必ず経を唱え、被害者の冥福を祈っていました」
実際に克美は、刑期を2年10か月残して、1983年10月に模範囚として仮出所すると、すぐさまAさんの両親に謝罪するために岡山の実家に向かっている。これは遺族に拒否されるが、翌月には会談が許され、父親に謝り続ける克美の姿をテレビが放送している。