暴力団の構成員、準構成員を合わせた総数は最近でこそ減少傾向にあるが、1991年に約9万1000人と平成以降ではピークに達していた。増長を押さえ込むため、政府は法規制強化に乗り出す。92年3月1日に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(暴力団対策法)が施行された。
この法案作成は、警察庁の法制グループが全員集結した大仕事であった。これは、暴力団対策に向け、警察があらゆる立法技術を駆使し、総力を挙げた取り組みだったのだ。
法の施行日を年度の変わり目ではなく、3月1日と前倒ししたことにも、警察庁の意気込みが表れている。
前倒しになったことで、施行準備の現場は猫の手も借りたい状況だった。私も、フランスへの赴任が決まった後の1991年8月末から渡航直前の92年2月まで、捜査第二課(当時)の施行チームで「暴力追放運動推進センター」の設置事務にかかりきりとなっていた。
カネ・ヒト・トチで追い詰める
在フランス大使館にいながら、5代目山口組若頭宅見勝の渡仏情報にすぐさま反応できたのは、赴任直前まで暴力団対策法のタコ部屋で連日午前2時、3時までの施行準備を担っていたためだったのかもしれない。
暴力団組織の力の源泉である「カネ・ヒト・トチ(事務所などの拠点)」から組織を追い詰める暴力団対策法は、前述のとおり、宅見勝、渡辺芳則といった山口組最高幹部が、国際連携に活路を求めざるを得ないほど、暴力団社会に危機感を与えていた。
暴力団対策法は、第3条で《都道府県公安委員会は、(略)当該暴力団を、その暴力団員が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれが大きい暴力団として指定するものとする》と定めるが、指定の前提として当該暴力団側の主張を聞く「意見聴取」手続の実施を定めている。
激震に見舞われた山口組、住吉会、稲川会の主要三団体は、意見聴取に最高幹部や弁護士を動員し、幹部自ら口々に「暴力団」であることを否定。最大勢力の山口組の危機感は特に強く、暴力団対策法施行1ヵ月後に実施された兵庫県公安委員会の意見聴取で、「法律でいう暴力団には当たらない」と主張した上、暴力団対策法を「憲法違反だ」と激しく批難し、抵抗した。
「組織犯罪者に国土を踏ませない」
宅見勝は、5代目山口組若頭として、渡辺芳則の代理として組織側の言い分を主張する役割を担っていた。その「スポークスマン」を乗せたJAL405便がシャルル・ド・ゴール空港に到着したのは、1992年8月19日午後5時24分だった。
それに先立ち、私は同日午後3時に改めてビラケムのDSTの本部を訪ね、情報のすり合わせと警戒警備の最終確認を済ませた。