『ユーカラおとめ』(泉ゆたか 著)講談社

 北海道白老(しらおい)町に国立アイヌ民族博物館ができたり、人気マンガ『ゴールデンカムイ』が実写映画化されたり、アイヌ文化への関心が高まっている昨今、アイヌ文学に興味を持つ人も少しずつ増えてきた。とはいえそこに北の大地のメルヘンなイメージを抱いている人も少なくないだろう。

 文字を持たないアイヌ語はユーカラなどの口承文芸の形で先祖の知恵を語り継いできた。「銀の滴(しずく) 降る降るまわりに、/金の滴 降る降るまわりに」という美しいフレーズはユーカラをはじめて日本語に訳した『アイヌ神謡集』(1923年)の一節。著者は19歳の若さでこの世を去った知里幸恵(ちりゆきえ)だ。泉ゆたか『ユーカラおとめ』は幸恵がこの本を完成させるまでの、特に東京での最後の日々を描いた評伝小説である。

 物語は結婚したばかりの夫を北海道に残し、幸恵がひとり上野駅に下り立つところからはじまる。〈卒業したら東京に来て、私の家に泊まりながら勉強をしませんか〉という著名な言語学者・金田一京助の求めに応じてのことだった。

ADVERTISEMENT

 登別のアイヌコタン(集落)で生まれた幸恵は6歳で伯母のいる旭川に移り、女子職業学校を卒業した。旭川の教会で金田一に出会ったのは15歳の時。アイヌ語も日本語も英語もできる幸恵の能力を金田一は高く評価したのである。

 師の期待に応えようと幸恵も発奮、妻と2人の子どもと女中のいる本郷の家での生活がはじまるが、この家はどうも変なのだ。

 妻の静江は情緒不安定。金田一も幸恵を過剰に持ち上げる一方「土人」という語を平気で使う。一時的に北海道から来たアイヌの男たちの中のひとりは〈決して気を許すな。あの男はお前を殺す〉といった。

 北海道でさんざん差別されてきた彼女はこの家にも同じ空気が流れているのを敏感に感じとる。彼女を屈託なく同志と呼ぶ金田一にある日幸恵は迫る。それならば〈私たちアイヌのことを“土人”と呼ぶのは、金輪際お止めください〉。

 というわけなので愛らしい表題に反し、本書が描き出すのはアイヌ民族、そして学究の徒としての幸恵の誇りと孤独である。

 当時新進作家だった中條(ちゅうじょう)百合子(後の宮本百合子)との出会いが印象的だ。アメリカ帰りのお嬢さん然とした百合子に幸恵は当初反発していたが、彼女を日本橋のデパートに連れ出したのは百合子で、1日楽しく遊んだ後、〈この薬はあなたの人生を救うものよ〉という言葉とともに渡されたのは避妊薬だった。

 家父長制に加えて妊娠や出産が女を縛った時代。アイヌ民族であることと女に生まれたこと、二重の桎梏(しっこく)の間で悩み格闘する幸恵の姿はアイヌ文化やユーカラへの甘い幻想を打ち砕く。美しい言葉の陰に隠された民族の怒りと憎しみ。差別の歴史は終わっていないと思わせる会心の一作だ。

いずみゆたか/1982年神奈川県生まれ。2016年『お師匠さま、整いました!』で小説家デビュー。19年『髪結百花』で第8回日本歴史時代作家協会賞、第2回細谷正充賞を受賞。「お江戸けもの医 毛玉堂」など、時代小説で多くのシリーズを持つ。
 

さいとうみなこ/1956年生まれ、新潟市出身。文芸評論家。近著に『挑発する少女小説』『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』。