矢埜 グラビアに関しては、憧れがあったというより、「芸能関係のお仕事があるだけで嬉しい!」という感覚でやっていましたね。
当時、私はまだ高校1年生だったので、 “ジュニアアイドル”として、高校生アイドルだけが載っているグラビア雑誌に出ていました。所属していた事務所の先輩方も雑誌のグラビアに出たりしていましたし、こういう仕事をするのが当たり前なのかな、と。
――多感な時期、水着姿が色んな人に見られることに嫌悪感はなかったのでしょうか。
矢埜 そういう感情はなかったですね。性に明るくなく、わけもわからずジュニアアイドルをやっていました。
当時は本当に「お仕事があればあるだけ嬉しい!」「とにかくお仕事ください!」という感じで。給料も気にしていなかったですし、それぞれのお仕事のギャラがいくらくらいとかもまったく知らずに活動していたくらいです。
「ちょっと複雑な家庭で…」
――ご家族も応援してくれていたのでしょうか。
矢埜 ちょっと複雑な家庭で……幼少期には知らされていなかったんですけど、母は私が3歳くらいの頃に再婚していて、実の父親と育ての父親が違うんです。物心つく頃には再婚相手が家庭に居て当たり前だったので、私にとっては育ての父が本当のお父さん、みたいな。
私が中学2年生の頃に母がまた離婚してからも、父とは頻繁に会っていました。ただ、父は私が20歳くらいで病気で他界してしまったんです。でも、グラビアアイドルとしてテレビに出演した番組は欠かさず録画してくれていたり、ずっと私の活動を応援してくれていましたね。
母は母で、昔、表舞台に憧れていたけど、やりたくてもできなかった経験があったらしく、「娘にはやりたいことをやってほしい」と、芸能活動を反対するようなことはありませんでした。
――ご家族の後押しを受けながら、15歳から舞台・アイドル・グラビアとマルチに活動を続けて、18歳では歴史あるイメージガールプロジェクト「日テレジェニック」のグランプリに選ばれます。どのような経緯だったのでしょうか。