『笑っていいとも!』が放送終了を迎えてちょうど10年目を迎える。なぜ長寿番組として人気を集め、今も熱烈なファンがいるのだろうか。ここでは『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)より一部抜粋。フジテレビの横澤彪プロデューサーが、当時“夜の番組にしか出れないアヤしげな密室芸人”としてカルト的な人気を集めていたタモリを抜擢し『笑っていいとも!』を立ち上げるまでを辿る。(全3回の1回目/#2、#3を読む)
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「知性の欠如への不満」が『いいとも!』スタートの理由だった
元々フジテレビには、昼の生放送による帯バラエティ番組の伝統があった。たとえば1960年代には、前田武彦やコント55号が出演した『お昼のゴールデンショー』(1968年放送開始)が人気だった。
この番組は、東京・有楽町にあった東京ヴィデオ・ホールからの生放送。前田武彦は放送作家出身で、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系、1968年放送開始)の司会などで活躍した人気タレント。萩本欽一と坂上二郎がコンビを組むコント55号は当時売り出し中で、この番組でもコントを披露し、さらに人気を加速させていった。
そして1980年代に入ると、B&B、ツービートら漫才ブームの人気者たちが出演する『笑ってる場合ですよ!』(1980年放送開始)が始まった。
基本になるフォーマットは、後の『いいとも!』と同じ。開業したばかりの新宿スタジオアルタから、月曜から金曜までの生放送。総合司会はB&Bで、各曜日のレギュラーにツービートや島田紳助・松本竜介、さらに落語家の春風亭小朝、明石家さんまなどが起用された。いわば、旬の人気若手芸人総出演という趣があり、その点でも『いいとも!』の原点となった番組である。
ただ、この番組でもプロデューサーを務めた横澤彪は、あるときから不満を抱くようになっていた。その理由は、「知性の欠如」だった。
知的笑いを担ってくれる肝心の人材は、「タモリしかいない」
『笑ってる場合ですよ!』もスタジオアルタからの生放送ということで、観客が入っていた。しかも、出演者の多くがいまを時めく漫才ブームの若手人気芸人ということもあって、観客も若いファンが多かった。その結果、ファン心理も手伝って、スタッフや出演者が意図したところで笑うのではなく、ただ滑って転ぶだけでウケるような初歩的な笑いしか生まれなくなっていたのである。