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 当の後藤ものちに10代を振り返り、《学校と仕事と私生活とで、すべてがままならなくて。『周りの人間は皆敵だ』ぐらいに思い込んじゃったのね。あの時は辛かった。でも、いろいろな人に助けられて、私自身も余裕ができてきて、そういう時期が長くは続かなかったから良かったんだけれど》と明かしている(後藤久美子『ゴクミ』講談社、2009年)。

 俳優業は傍目には順調に見えた。1989年からは国民的映画『男はつらいよ』に1995年まで4作連続でマドンナ役に起用され、渥美清扮する寅さんの甥・満男(吉岡秀隆)の初恋相手・及川泉を演じた。1991年の大河ドラマ『太平記』で演じた美少年、南北朝時代の公卿・武将の北畠顕家も印象に残る。

若き日の後藤久美子 ©文藝春秋

「女優」への抵抗

 ドラマ『火の用心』(1990年)出演時には脚本家の倉本聰と交流を持つようになる。1992年の倉本との対談では、《世間では“女優業専念”、そんな感じでいわれるけど、ワタシは自分で他にも勉強したいことがたくさんあるから、それを続けていけば女優という仕事だけにはならないと思って》と語っていた(『週刊プレイボーイ』1992年2月18日号)。ちょうど高校卒業を控え、大学には進学しないと公言していたため、世間では仕事に専念するものと見られていたのだ。

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 もともと勉強が好きで、当時から英会話学校に通ったりしていた。仕事のための勉強も欠かさず、若者向けのアメリカ映画のビデオを片っ端から借りて観たりした。『男はつらいよ』の現場では、《きちんとお芝居をしなければならない仕事をしているんだ、きちっと何かをしなければならない仕事をしているんだと気づきました》と(『Bart』1995年9月11日号)、学んだものも大きかった。

 しかし、女優と呼ばれることには、デビューから10年近く経っても抵抗感を拭えなかったようだ。《女優って、たぶん年齢的に30歳ぐらいから呼ばれるに値するものだと思うんですよ。だから、まだ、逃げなのかもしれないけれど子役と思われたいな。職業を書く必要がある時は役者と書きますが、女優とは書けない》とは、21歳のときの発言だ(『Bart』前掲号)。

アレジとの熱愛

 他方でこのころは結婚に強く憧れていた。それも、仕事から逃げ出すため、仕事をやめさせてくれる人と結婚したいと思っていたという。一時は激しい恋をし、その相手と一緒になるものと思っていたが、突如としてとくに喧嘩も、話し合うこともなく、別れてしまった。《それで、ああそうか、結婚して仕事をやめたいとか、何かそういうことを思っても、すぐに訪れるものではない、と。私には、そういうことは、きっともっとうんと後になってからくるものなんだと思っていた時に》(前掲、『ゴクミ』)、出会ったのが、現在の伴侶で、F1レーサーだったジャン・アレジである。