次に向かったのは、まだ見たことがない乾燥谷と呼ばれるエリアだった。まず見せてもらったのが、覆土式の火薬庫だ。
重厚な扉をくぐるが、この扉は当時から残っていたものではなく、映画撮影が行われた際にセットとして作られたもの。
内部は真っ暗だが、その中にかまぼこ型をした巨大な火薬庫があった。コンクリートの二重構造となっていて、外壁との間に隙間がある。さらに上から土を被せて覆っているため、覆土式と呼ばれている。こうすることで敵機からの発見を防ぎ、爆撃を受けても中の火薬を守れる構造となっている。
火薬庫は奥行き69mもあり、広大な空間が広がっていた。関本さんによると、最盛期には弾薬がぎっしりと詰まっていたが、徐々に戦局が悪化し、終戦のころには空っぽになっていたという。
同じ乾燥谷に、製造した火薬を乾燥させるための乾燥場が残っているということで、そちらも案内していただいた。重厚なレンガ造りの建物で、左右対称に二つの部屋がくっついた構造をしている。
赤れんがパークほどの大きさはないが、とても美しいレンガ造りの建物だ。
内部に足を踏み入れると、床に大量の泥が堆積している。関本さんによると、1953年の台風13号の被害により入り込んだのだとか。
天井から突き出た大きなダクトはボイラーから繋がっていた蒸気の配管の跡だ。火薬廠では爆発事故を防ぐため、動力や熱源に電気やエンジンを極力使わず、ボイラーによる蒸気を利用していた。
皮膚がかぶれ、髪の毛が黄色くなっても働いた
舞鶴市朝来地区に火薬廠が造られたのは、1941年(昭和16年)のことだった。それに伴い、住宅約60戸や田畑の水源だった山林が国に収用された。第三火薬廠に従事していた5000人のうち、1330人は学徒動員だったという。
火薬は乾燥させておく必要があるため、各施設は風が抜ける谷筋に建設された。特に乾燥場は高温の状態が維持されていたが、動員学徒らはその中でも作業していた。火薬によって皮膚がかぶれ、髪の毛が黄色く着色するなど非常に厳しい環境下で、常に空腹に耐えながら働いていたという。
土地を収用され生活基盤を奪われた住民や、火薬廠に従事していた人たちの声は、あまり表に出てこなかった。こうした記憶はきちんと記録に残し、発信していかなければ消えていってしまう。