「誰もやらないなら、自分でやるしかない」
自身も戦争を知らない世代でありながら、そんな強い意思を持ち、第三火薬廠のことを調べて書籍を出版。20年以上にわたり研究を続けてきた関本さんは、第三火薬廠は全国的に見ても非常に貴重な戦跡だと胸を張る。
事実、覆土式火薬庫など、全国的に見てもここにしかない遺構も多い。
なにより、戦時中のことを自身の体験として言い伝えることが難しくなってきている現状において、当時のまま残っている戦跡は、物言わぬ歴史の生き証人として重要さを増している。
京都府でも有数の心霊スポット“ロシア病院”
その一方で、第三火薬廠は一部の人たちの間では“ロシア病院”と呼ばれ、京都府有数の心霊スポットとして夜な夜な訪れる者が後を絶たない。その中には、戦跡を破壊する者もいる。近年、落書きも目立つようになった。
なぜロシア病院と呼ばれているのか、そのルーツは関本さんもご存知ではなかった。誰かが勝手に言い出したことであれば、それを知る由もない。その理由を推測すると、“ロシア”は日露戦争に由来するのではないかと思われるが、同地に“病院”があったことは、これまでに一度もない。区切られた小部屋が病室のように見えたとか、その程度の理由なのだろう。せめて、ここは病院の廃墟ではなく、貴重な戦跡であることぐらいは知っておいてほしい。
今回、第三火薬廠をのべ3日間にわたって訪れ、関本さんに話を聞くことができたため、戦跡がどのような経緯で造られ役割を果たしていたかや、地元住民や従事者の苦難を知ることができた。関本さんに聞いてはじめて分かることも多く、実際の戦跡が残っていることで興味や説得力は桁違いに増した。
平和を祈ることは、いかなる政治派閥、主義主張をも超越した人類普遍の願いだろう。そのためにも、戦跡をいかに残し、語り継いでいくか。その両翼を担うのは戦跡と語り継ぐ人だが、建物は朽ち、当時を知る人は激減しつつある。今がまさに分岐点といえるだろう。
赤れんがパークは多くの人が楽しめる素敵な戦跡だが、第三火薬廠のようにひっそりと朽ちつつある貴重な戦跡も日本中に数多く存在している。人為的に破壊されたり、落書きにまみれた戦跡の姿を見ると、心が痛む。藪が綺麗に刈られた第三火薬廠の姿を眺めながら、各地にある戦跡の未来を想像していた。
写真=鹿取茂雄
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