周辺には、他にも多くの施設が残っているのだが、一部区域は立ち入りが制限されていたため、1kmほど西にある溶融回収場の遺構を見て、この日は帰宅した。
自宅に帰り着いた後も第三火薬廠のことが気になり、独自で調査を続けた。そのうち、当時のことを知る方から話を聞いてみたいと思うようになったが、戦後79年が経過している今、直接話を聞くことはなかなか難しい。
現地に詳しい案内人と探索を続けると…
そんななか辿り着いたのが、地元で舞鶴第三火薬廠の研究を続けている関本長三郎さん(80)だった。
関本さんは第三火薬廠のことを調べ、実際に従事していた123人の方から話を聞き取り、2005年に『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』を出版されている。書籍を購入するため関本さんと連絡を取っているうちに、現地を案内していただけることとなったのだ。
2024年3月、私は再び舞鶴市を訪れた。関本さんと合流して向かったのは、もちろん第三火薬廠だ。まず最初に、昨年見た砲熕谷(ほこだに)と呼ばれるエリアを案内していただいた。
驚いたのは、前回と大きく変わっていた光景。
戦跡を覆い隠していた激しい藪が、綺麗に刈り払われていたのだ。雑木や竹も伐採され、何も遮るものがなくなり、戦跡をすっきり見渡すことができた。関本さんによると、地元で森林づくりの活動を行うNPO団体の方たちが手入れしてくれたのだという。劇的な変化に感謝しながら、見学させていただいた。
ここ砲熕谷では、製造した火薬を砲弾などの兵器に充填する作業が行われていた。細かく仕切られた細長い建物は、場所によって部屋の大きさが異なっていたが、製造する兵器の大きさに比例していたのだという。
壁が片面にしかないのと、天井が斜めに切ってあり外に向かって高くなる構造は、万が一爆発した時に爆風を逃がすため。転がっている無数のダクトは、動力源や熱源として利用されていた蒸気を、ボイラー室から各所へ送るために設置されていたのだという。
ちなみに、最も奥にあった床が水没している建物は、爆薬庫だと教えてもらった。
爆薬庫の手前でトンネルのような構造物をくぐったが、あれは万が一の際に被害が広範囲に及ばないようにするための土塁だったというわけか。聞いてみないと分からないことは多い。