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サメが眼前に現れぐるぐる回ることも……能登半島地震で被災しても「輪島の海女」が潜り続ける理由

サメが眼前に現れぐるぐる回ることも……能登半島地震で被災しても「輪島の海女」が潜り続ける理由

能登半島地震「最強の海女」の苦境#2

2024/04/07

genre : ライフ, 社会

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 石川県輪島市の海女(あま)は波の荒い日本海に潜る。潮の流れが速くても、ものともしない。

 このため「日本で最強の海女」と評する人もおり、その卓越した技術は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

 だが、能登半島地震で輪島港の海底が隆起して、漁船が出せなくなった。海女漁もできない。

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「このまま何年も潜れなくなれば、海女の多くが引退してしまいかねない」。かつてない危機感が広がっている。

輪島の海女の歴史と伝統

「川」。輪島の海女は流れの速い潮のことを、こう言う。

「水圧で頭がぐいぐい押され、水中メガネが持っていかれそうになることもあります。岩につかまっていた手を離せば、スーッと流されてしまいます」

 門木奈津希(かどき・なつき)さん(43)が説明する。「輪島の海女漁保存振興会」の会長として、市内の海女の取りまとめ役になっている。

 輪島の海女は「海の川」で何時間も泳ぎながら、サザエやアワビを採る。それほどの泳力はどうやって身につけたのか。秘密は歴史と伝統にあった。

 輪島市の海女の多くが住んでいるのは海士(あま)町という地区だ。

 歴史をさかのぼると、永禄年間(1558~70年)に筑前国(現在の福岡県)の鐘ケ崎から、海士又兵衛という人物が男女12人を率いて能登に漂着し、漁を始めたという伝承がある。輪島の沖合48kmにある舳倉(へぐら)島でも季節的な漁を行っていたといい、海士又兵衛は慶安2(1649)年に加賀藩主にアワビを献上。輪島の土地1000坪(約33アール)を拝領して定住したとされる。

 これが海士町の始まりである。

高度経済成長期を境に廃れていった「島渡り」の文化

 子孫は375年もの間、漁業をなりわいとしながら、独自の文化を継承してきた。

 このため海士町の漁業には歴史的な経緯がある。

 漁業権があるのは舳倉島の周辺や、その途中にある七ツ島の辺りなどで、輪島沿岸からは離れている。

舳倉島の港(2019年撮影)

 舳倉島は日本海の真っ只中に浮かぶ絶海の孤島だ。面積は小さく、東西約1600m・南北約600mしかない。ぐるりと周回しても1時間ほどで歩ける。

 この島では独特な住み方がなされてきた。夏の漁期になると輪島から「島渡り」を行い、2拠点居住をしてきたのである。

 舳倉島が賑わうのはサザエやアワビの海女漁が解禁される7~9月だ。海士町の人々は家財など一切を船に積み込んで島へ渡っていた。僧侶や助産師まで町が丸ごと移動するのだ。漁期が終わる秋には、また輪島へ戻る。