冬期には海産物や加工品を持って、能登一円の行きつけの農家を回り、米などと物々交換して1年分の食糧を調達していた。
「島渡り」は高度経済成長期を境に廃れていった。輪島と舳倉島を結ぶ定期船が就航したのに加え、漁師もそれぞれ動力船を持つようになったからだ。年間を通じて輪島に住み、漁にだけ舳倉島の周辺などへ通う人が多くなった。
それでも夏の間、もしくは年間を通じて舳倉島に住み、海女漁を行う人もいた。輪島から漁船で通う「通い海女」に対し、「定住海女」と呼ばれている。
島で生きる知恵として、泳ぎを覚える
奈津希さんは最も海女らしい育ち方をした一人だろう。中学校までは舳倉島で過ごした。島には小中学校の分校もあったのだ(現在は休校中)。
四方を海に囲まれていたので、遊び場は海だった。
泳ぎは子供が子供に教える。
「小学1年生の時、年上の人から海に放り込まれました」と奈津希さんは話す。
最初は低い所から浅い海に落とされる。「嫌だ」と言っても、「できない」と言っても許してくれない。とにかく投げ込まれるのだ。ただ、すぐに助けてくれる。これを繰り返すうちに、「気がついたら泳げるようになっていました」と語る。
「周りが海なので泳ぎを覚えなかったら逆に危ない。島で生きる知恵として、そのようなことが行われてきたのではないか」と分析する海女もいる。
泳げるようになると、海がどんどん楽しくなっていった。奈津希さんは小さな貝を採り、小遣いをもらうこともあった。
泳ぎを教えるのは子供同士、漁を教えるのは親
上級生が次第に深い場所へ連れて行く。自然に耳抜きもできるようになった。人間は深く潜ると水圧で鼓膜がへこむ。痛いだけでなく、鼓膜が破れることもある。これを防ぐために、呼気を鼓膜の内側に送り込んで、鼓膜を元の形に戻すのが耳抜きだ。
一方、輪島側でも小さい頃から子供同士で泳ぎを教え合った。「猫地獄」と呼ばれる海に突き出した岩場も遊び場だった。「皆で海に飛び込むのですが、シケでうねりがある時の方が楽しいのです。引き波に引っ張られるのが面白かった」などと、親が聞いたら卒倒しそうな遊びまでしていた。泳力がつくはずである。さすがに近頃は、そうした遊びは行われていない。
また、今でこそ進学が普通になったが、かつては義務教育を終えると、すぐに漁に出るのが海女のエリートコースだった。
奈津希さんもその道を歩んだ。