そこで道長が「こんなときでも笑顔がないのだな」と語りかけると、明子は「微笑むことすらなく生きて参りましたゆえ、こういう顔になってしまいました」と説明したうえで、「道長様のお子を宿したことはうれしゅうございます」と返答。続けて、父の兼家の見舞いに行きたいと願い出た。
それを道長が受け入れると、この第13回で一気に老化が進んだ兼家のもとを訪れ、兼家が手にしている扇をほめ、欲しいとねだって譲り受ける。そして、この扇を兼家の一部とみなし、呪詛をはじめるのである。
では、明子はなぜこれほど兼家を憎んでいるのか。また、憎き相手に対してとる方法がなぜ呪詛なのか。明子の来歴と、平安中期の考え方や慣習に触れながら、それを解いていく必要があるだろう。
政変で九州に流された明子の父
第12回で、道長が源明子と結婚するように勧めたのは、道長の姉で一条天皇の母である皇太后の詮子(吉田羊)だった。ちょうど一条天皇がわずか7歳で即位したころ、詮子は身寄りがない明子を引きとっていたのだ。彼女に身寄りがないのは、父が政変で失脚したことに起因していた。
安和2年(969)に起きたその政変は、安和の変と呼ばれる。3月25日、謀反の密告があり、首謀者とされた2人が捕らえられて尋問された。その際、左大臣だった源高明、すなわち明子の父も、謀反に加担していたという結論が出され、太宰権帥として太宰府に流されることに決まる。高明は出家をしてでも京都に留まりたいと申し出たが、却下されて九州へと流され、その後、邸宅は焼失した。
2年後の天禄2年(971)に罪を許されて京都に戻ったが、政界へは復帰することがないまま、天元5年(982)に死去している。
ここでいう謀反の詳細は明らかではないのだが、変については概ね、次のように説明されている。
康保4年(967)5月に村上天皇が亡くなると、皇太子の憲平親王が即位した。しかし、あらたな冷泉天皇には子がなく、精神に少し不安もあったので、すぐに皇太子を決める必要があったが、対立が起きた。本来なら、同母兄の為平親王が皇太子になるのが順当だが、この親王は源高明の娘をめとっていたため、即位した暁には源高明が外祖父になり、藤原氏が排斥されかねない。