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 ロッテ時代に3度の三冠王。それでも、当時のパ・リーグには日が当たらなかった。

 しかし、観客が少ないからといって、その数字の価値は変わらない。勝負の世界は結果がすべてだ。たとえ注目度が低かろうとも、残した数字で選手は評価される。

 だから、落合は打ち続けた。「オレ流」と呼ばれた孤高のバットマンは、誰もが認めざるを得ない、その圧倒的な記録で存在感を放った。

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 ただ、それだけ落合が打とうとも、ロッテは優勝できなかった。

©文藝春秋

FA決断の落合から「俺がいなけりゃ活躍できるよ」

 山﨑武司はルーキーイヤーの1987年、キャンプで落合と同部屋の“部屋子”だった。

「あの人のすごさをね、僕も見てきているしね」

 同じ右打者ゆえに、球団も落合に若き大砲候補を預けたのだ。

 1989、90年に2年連続となるウエスタン・リーグの本塁打&打点の2冠王。1軍での初本塁打は、捕手から外野手にコンバートされた5年目の1991年。ゆっくりと、少しずつ力をつけながらも、1軍と2軍を行ったり来たりしていたその頃から、なぜかしら落合からの“当たり”が強くなったのを、山﨑は感じていた。

©文藝春秋

「あの人ね、ああいう性格だから、うじうじ言うんですよ。初めね、大豊(泰昭)さんをイビってたのよ。それで大豊さんもブチブチ言うわけですよ。それで1軍に上がってきた頃だったかな、何か知らんけど、俺をイビり出してね。何だ? 俺、部屋子だったんじゃねえの? みたいな感じだったんだけど、まあ、勝手に言っとけやって思って、気にせずやっとったんですよ」

 その落合が、FA権を行使して巨人への移籍を決めたのは1993年オフだった。

山﨑のその後を予見していたかのような“後継指名”

 その年、山﨑はプロ7年目。1軍77試合で3本塁打を放ち、やっと、ちょっとだけ日の目を見た頃だった。

「広島だったかな。たぶん、宿舎のホテルで、ですよ」

 山﨑は、落合から「ちょっと来いや」と呼び出しを受けた。

 訝しがる山﨑に、落合はニヤニヤしながら話を切り出した。

「おー、お前、よかったな」

 何のことか分からず、戸惑う山﨑に、落合はさらにこう続けたという。