山田太一の1987年の小説『異人たちとの夏』があらたに映画化された。
『異人たちとの夏』といえば、小説が発表された翌年に、大林宣彦監督により同名タイトルで映画化されている。
しかしそれから30年以上を経て、アンドリュー・ヘイ監督の手で映画化された今回のタイトルは、『異人たちとの夏』ではない。
ただ『異人たち』――。
字面としては、わずかな違いかもしれない。けれども実際は、作品のテーマそのものにかかわる、大きな脚色が施されている。
浅草を舞台にした大林宣彦版『異人たちとの夏』
原作や、忠実に映画化された大林版では、妻子と別れ、マンションにひとりで暮らす男性脚本家が主人公だった。
ある晩、同じマンションに住む女性が、シャンパンを飲まないかと彼の部屋を訪ねてくる。そしてどこか謎めいたこの夜を発端に、彼は不思議なできごとを体験する。
タイトルが示すように、物語の中核にあるのは“異人”たちとの交流だ。
幼いころに暮らした浅草をぶらつくうち、彼は12歳で死別した両親と出会い、心が慰撫されるような時間を過ごす。その一方で、マンションの女性とは逢瀬を重ね、そこに親密な時間を育んでいく。彼女がすでにこの世にはいないことを知らずに。
つまりここでの“異人”とは、主人公の脚本家が関係する“幽霊”を指し示している。
ロンドンが舞台の今作の“異人”とは
ところが『異人たち』のほうは、“異人”にまた別の意味合いを加えている。
マンションに住む脚本家のアダムは、両親を事故で亡くして以来、ずっとひとりぼっちで生きてきた。
ある晩、同じマンションに暮らすハリーという名の青年が、ウイスキーを飲まないかと彼の部屋を訪ねてくる。彼いわく、このマンションで生活しているのは、自分たちふたりきりだというのだ。アダムはどこか憂いのあるハリーと親密な時間を育んでいく。
その一方で、アダムは両親との思い出をもとにする、1987年が舞台の脚本に取り組んでいた。ふと思い立った彼は、電車に乗り、幼少期を過ごしたロンドン郊外の家を訪ねる。