偽装殺人、猟奇事件……もの言わぬ遺体は、その背後に潜む人間の憎しみや苦悩を雄弁に語りだす。死者の声を聞き、なぜ死に至ったかを調べていくのが、監察医の仕事だ。ここでは法医学の現場に60年以上携わり続けてきた元監察医・上野正彦氏によるロングセラー『死体は語る』(文春文庫)を紹介。昭和に起きた「親子鑑定をめぐる裁判」をふりかえる。
ある会社の支店長が自ら命を絶った。その通夜の晩、悲しみに暮れる妻の前に子連れの女性が現れ、「10年来、故人と関係があった」と打ち明けて、子供の認知と遺産の分配を迫った。ところが妻は「夫は無精子症だった」と告白。両者の主張は平行線をたどり、民事裁判にもつれ込んだ。本妻側は「夫の無精子症が証明されれば、勝てる」と考えたのだが……。 (全2回の2回目/最初から読む)
※本記事は『死体は語る』(1989年)を一部抜粋・再編集したものです。
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十数年前、夫婦で診察してもらった病院を訪れた。年をとったがその医師は健在であった。しかし、医師はカルテの保存義務は5年間で、古いカルテは焼却してしまうので、記録がないから証明することはできないとの返事である。
弁護士は、それではこの奥さんに見覚えがありますか、と医師に尋ねた。
診たことがあるような気もするが、始終このようなご夫婦の患者を診察しているので、はっきりした記憶はないとのことで、反証の手がかりを失ってしまった。
そればかりではなく医師は、無精子症といっても全く精子がないというのはごく稀で、多少は存在している。ただ精子の数が少なく受胎しにくい場合も含めて、無精子症といっているので、ときには子供が生まれることがあっても不思議ではない――と医学的解説に及んだのである。
最後の望みも、その瞬間に消え、失望と焦燥の中で、本妻も弁護士も打つべき手段を見失ってしまった。
法医学の教授に相談すると…
裁判とはいいながら、死んで半年以上もたっている人の血液型や無精子症の証明をしようというのであるから、これはむしろ医学上の問題であった。弁護士はある大学の法医学の教授に相談することにした。法医学教室では、親子鑑定が数多く取り扱われていた。
教授は、夫の遺品の中から血液型を判定できるものを探し出すようにと指示してくれた。毛髪や爪などでよい。また、汚れたちり紙やハンカチ、タバコの吸いがらなどでもよかった。これらには汗、唾液、痰、鼻汁などが付着しているから血液型を割り出すことができるのである。
しかし、そのほとんどは汚物に類するもので、探すまでもなく、とっくに廃棄されている。それでも妻は、夫の旅行用洗面具セットの中から、櫛についていた毛髪3本を見つけ出した。
また、法廷には愛人の方から、生前月々パパから仕送りされていたという現金書留封筒が束ねられて提出されていた。公的機関を使っての送金の事実は、二人の関係が親密であったことを明確に証明する有力な証拠物件となっていた。加えて、現金書留封筒に書かれた文字は、まぎれもなく夫の字であることを、本妻も法廷で認めていたのである。
かなり以前から、夫に愛人がいたことが明らかになり、愕然としながらも、彼女は子供の件については、どうしても納得しえなかったのである。
話を聞いていた教授は、
「現金書留封筒。それですよ」
とつぶやいた。