偽装殺人、猟奇事件……どんなに誤魔化そうとしても、もの言わぬ遺体は、その背後に潜む人間の憎しみや苦悩を雄弁に語りだす。死者の声を聞き、なぜ死に至ったかを調べていくのが、監察医の仕事だ。
ここでは法医学の現場に60年以上携わり続けてきた元監察医・上野正彦氏によるロングセラー『死体は語る』(文春文庫)を紹介。昭和に起きた「親子鑑定をめぐる裁判」をふりかえる。(全2回の1回目/続きを読む)
※本記事は『死体は語る』(1989年)を一部抜粋・再編集したものです。
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この事件は、夕刊に小さく載っていた。子供のないある会社の支店長が、電車に飛び込み自殺をしたというのである。迎えの車で出社中、電車の通過待ちで、運転手は踏み切りで、一時停止をしていた。後部座席に乗っていた支店長は、何を思ったのかドアを開け、車から降りるなり、遮断機をくぐり抜け、やって来た電車に飛び込んでしまったのである。
一瞬の出来事に、運転手はハンドルを握ったまましばし茫然としていた。動機は組合交渉で心身ともに疲れ果てたためとあった。初老期のうつ病とも思える自殺である。
10年来の秘密が明らかに
通夜の晩、小柄な中年の婦人が小学校3~4年とおぼしき男の子を連れて参列したことから、この事件は波乱の幕が開くことになる。集まった親戚のものをはじめ、会社関係の人たちも、その子連れの婦人と面識はなかった。襟元が美しいその女性は、ことのほか目立った。
不審に思って、丁重に、
「どちら様ですか」
と尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。
「私は10年来、故人と関係のあったものでございます」
支店長の奥さんは驚いた。寝耳に水である。そんな馬鹿な話はない。夫と私の間に、そのような隠し事があるはずはないと否定した。
しかし、その女性は男の子を引き寄せて、
「これが何よりの証拠です。パパとの間の子供です」
と言いながら、ハンドバッグから数枚のスナップ写真を取り出した。子供を中に親子3人が睦まじく写っている。母と子はまさにここにいる本人たちであり、父とおぼしき男は間違いなく自分の夫であった。
支店長に愛人があり、子供まであったなどとは誰も知らないことであった。しかも、子供は10歳ぐらいだから10年来の秘密ということになる。
奥さんのショックは大きかった。愛人は当然のことながら、子供の認知と遺産の分配を要求したのである。
大変な通夜になってしまった。
身内のもの数人を残して、客は早々に帰っていった。夫にあざむき通された妻は、哀れであった。この夜のハプニングは、どうやら本妻の負けの印象が強かった。