中継のパートナー選び
81年には第1回「東京国際マラソン」を中継するという成果を見せた坂田だったが、そこでプロデューサーを務めた坂田は、ある抜擢をした。まだ入社2年目だった社員を、移動中継2号車のディレクターに選んだのだ。
この青年こそが、のちに「箱根駅伝」の初中継で総合ディレクターを務め、類まれなる才能を見せた田中晃(たなかあきら)だ。
早稲田大学第一文学部(現・文学部)演劇科出身の田中は、「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」といったドラマを作りたくて79年、日テレに入社。
田中の意に反して、配属先は運動部だった。運動部にとって田中は、9年ぶりの新入社員だった。上司は部の体育会系体質を懸念し、部員たちに、「『ああしちゃだめ、こうしちゃだめ』と細かく制限せず、しばらく温かく見守ろう」と言い含めていた。それに対し、「何様がやってくるんだ」という反発もあったという。
しかし、田中に仕事をさせてみると、ニュース原稿の書き方から映像編集の仕方まで、入社当時からセンスを感じさせた。確かにいいのが入ってきたぞ、と坂田は納得した。
坂田と田中の二人は、トヨタカップやプロ野球をはじめ、数多くのスポーツ中継で息のあったコンビを組むようになっていった。
本気で検討を始めたが…
ロードレース人気もようやく高まりつつあった83年。日テレは開局30周年記念番組となる企画を社内で募集、坂田が企画した「横浜国際女子駅伝」の中継が採用された。これは、世界で初となる「駅伝」国際大会だった。5年後は開局35周年となる。おそらく会社は、再び記念番組を募集するだろう。ならばそろそろ「箱根駅伝」に挑戦しようではないか。
坂田は本気で検討を始めたが、42.195キロのマラソンは中継できても、延べ200キロを超す距離と冬の箱根の山を克服することは、やはり技術的に不可能に思えた。
坂田は84年夏のロサンゼルスオリンピックに、日テレの取材チームの団長として参加した。中継技術を磨くため米国で1年間の研修をしていた大西も、それに加わった。
一方、田中は「ジャパン・プール」の一員として、オリンピックに参画していた。
仕事の合間に坂田は、同期で気安い仲だった大西に語りかけた。