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「僕、箱根駅伝をやってみたいんだよねえ。すごい戦いなんだよ」

「えっ、箱根駅伝? 本当に? ……でも、面白そうだね」

 このとき、優秀な技術者である大西が「箱根の中継は、技術的に無理だ」と頭から否定しないでいてくれたことを、坂田は胸に刻み込んだ。

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「箱根のことは、思い出したくもありません」

 プロ野球中継といった通常業務とは別に、坂田は箱根駅伝中継に向けて個人的に事前調査を開始していた。休日を使ってコースを歩いてみたり、箱根路を走った元選手や関係者を取材したり。日本陸上競技連盟の専務理事になっていた帖佐らの協力もあり、2年間で約100人もの人々から過去の駅伝の様子を聞き取っていった。

 元選手の10人に9人は、思い出話をしているうちに、ふと目を赤くした。何十年も昔の話なのに、まるでつい最近のことのように話す人もいた。タスキをつなぎ切れなかった人に電話をしたところ、「箱根のことは、思い出したくもありません!」といきなり切られたこともあった。

「今まで中継してきた他のスポーツとはちょっと違うようだ。自分が思っていたよりも、何かずっと重みがあって、強烈なものを心に残す大会なのではないか」

 1920年(大正9年)から始まり、太平洋戦争をはさんでもずっと存続してきた大会だ。84年の第60回大会までで、8000人近くもの選手が走っている。調べれば調べるほど、興味深い話、感動的な話など、様々なエピソードがこぼれ出てきた。

 箱根駅伝は、ひとの人生に大きな影響を与えている。坂田は、その大きさに惹かれ、前へ前へと進んでいった。まるで奥深い箱根の山へ、いざなわれるように。

許可を得るまでの戦い

 85年末、坂田は全国高校駅伝を取材した。優勝した兵庫県の報徳学園の全選手が、「次の目標は箱根です!」と宣言したのを聞き、「やはり、やるしかない」と決意を固めた。

 箱根駅伝の中継を実現するには、克服すべき課題が多かった。テレビ番組を作るには「制作サイド」と「技術サイド」が協力し合わなくてはならない。いくら制作サイドが面白い企画を立てたとしても、技術的に不可能であれば、番組は作りえない。