デビューしたての頃、私はある人に、
「日本では馴染みの存在になると、名を音読みで呼ばれるようになるからね。開高健や菊池寛のようにね。だから、あなたも愛されて、音読みしてもらえるようになるといいね」
と言われたことがあるが、いまだ音読みで呼ばれた経験はない。「万城目ガク」などと表記しようものなら、即座に誤字扱いである。
翻って、義経である。
当然の如く、彼は「音読みされ」族だ。これまで多くの日本人に愛されてきた、人気者の証。その生き様を描いた記録は「義経記(ギケイキ)」となる。
物語は義経の幼少エピソードからスタートする。語り手は、義経本人だ。
ここに大きな発明がある。
私は三年前、本誌で『とっぴんぱらりの風太郎』なる忍者ものを連載した。その際、なるたけ会話文は現代の青年が交わすものと大差ないよう案配した。なら、ついでに、会話文だけでなく地の文でも、現代の言葉を取り入れ、はっちゃけたらどうだと編集者に提案されたが、できなかった。1600年代に生きる主人公が、二十一世紀の言葉を知っている「理屈」をひねり出せなかったのだ。
しかし、町田康はそこを軽々と突破する。何しろ、一行目から「ハルク・ホーガンという人気レスラー」という文章が登場する。なぜ、それが可能かというと、義経が、正確には義経の意識が現代に存在していて、過去と今日の言葉、ときにネット用語までもを自在に駆使し、縦横無尽に語り尽くす、という態(てい)だからだ。
「平家、マジでいってこます」
と義経は語る。源氏の再興を願い、平家打倒を企てる、ざっと千年前の若者たちの悲喜劇を滔々と連ねる。これはつまり、語り手義経による「同時通訳」なのだ。千年前の独白を、現代に漂う義経自身が同時通訳している。ゆえに本旨から外れることなく、好き放題、現代の言葉を使いながら、豊穣な語りの空間を演出できる。すごい。まさしく発明である。
今作では牛若の時代から、弁慶との邂逅を経て、兄頼朝との再会手前までが描かれる。まだまだ長い旅になりそうだ。作中で繰り返し指摘されるのは、人間の顔の美醜が、相手の先入観をいともたやすく誤らせ、ときに当人の人生をも理不尽に左右するという世の現実である。たとえば弁慶は超絶ブサイクとして描かれる。このこだわりがこの先、どう物語の中で昇華していくのか。不気味な冷たさを早くも醸し出している「頼朝さん」とのままならぬ今後の展開ともども見逃せぬ。
まちだこう/1962年大阪府生まれ。作家、歌手。96年に発表した処女小説「くっすん大黒」でドゥマゴ文学賞、野間文芸新人賞、2000年「きれぎれ」で芥川賞、02年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、05年『告白』で谷崎潤一郎賞受賞。著書多数。
まきめまなぶ/1976年大阪府生まれ。作家。2006年『鴨川ホルモー』でデビュー。最新小説に『バベル九朔』がある。