渋谷スクランブル交差点前という目立つ場所で長らく気になっていた「甘栗屋」。しかし周りの人に聞くと「そういえばあるよね」「何回か買ったことある」「そんなところに甘栗屋なんてあったっけ?」と人によって記憶はまちまち。スクランブル交差点に溶け込んでいるような溶け込んでいないような不思議な存在感を持つ店だ。
この甘栗屋がこの地にできたのは、なんと70年前。入れ替わりの激しいこの場所で、なぜこれほど長きにわたり商売ができたのか。店を経営する藤山産業の代表取締役、藤山光男氏と店長の橋本正弘氏に話を訊いた。
店の広さはほんの10坪ほどだが、地価にすると約6億円。とんでもなく人通りの多い日本一有名な交差点という超一等地に、その天津甘栗店は昭和の時代からタイムスリップしてきたような風情で存在する。きどった店名は特に授けられず、「藤山産業 天津甘栗店」という看板がかけられている。
「年末は従業員総出で徹夜で栗を焼いた」
――渋谷駅前交差点がスクランブル化されたのは1973年ですが、そのずっと前からお店があるのですね。甘栗店ができた経緯から伺えますか。
藤山 戦後すぐ、1950年代前半に父が兄弟と一緒にあの場所で三千食堂という食堂を始めました。特に資産家でもなんでもない普通の一家でしたが、運良くあの場所が借りられたようです。戦後の混乱期で、モノがあれば何でも売れる時代だったので、食堂のかたわら、薬の販売も始めるとそっちの売上げが伸びたんです。それで食堂を閉めて薬局にしました。それが隣の「三千里薬局」です。
ちょうどその頃に知人から栗が売れると聞いて、1960年頃から天津甘栗の販売を始めました。大手の「甘栗太郎」さんら何社かで中国から栗を輸入していたので、少し分けてもらって商売を始めたんです。私は1958年生まれで現在65歳ですが、物心ついた頃からこの店はありましたね。
――甘栗店は今以上に人気だった?
藤山 ええ。1975年頃までが最盛期で、父が甘栗屋をどんどん広げて、有楽町や新橋などに10店舗以上かまえていました。栗も年間200トンくらい仕入れていて、今の20倍くらいの規模でした。昔はデパートにもよく甘栗屋があって、年末年始のご挨拶の手土産用に大量注文してくれる会社もけっこうあったんです。年末は従業員総出で徹夜で栗を焼いたのが懐かしいですね。事業は好調で、父は甘栗以外にも中華料理店や洋食店など手広く経営していました。