つまり、人口問題が専一的に「人口減」を意味するのは、今のところは一部の先進国だけなのだ。
私たちがこの事実から知ることができるのは、人口はつねに多過ぎるか少な過ぎるかどちらかであって、「これが適正」ということがないということである。人口については適正な数値が存在しない。それが人口問題を語る上での前提であろう。
日本の人口として、いったい何人が適正なのか、私が知る限り、その数字を示してくれた人はいないし、ある数字が国民的合意を得たこともない。
果たして、日本列島の「適正な人口数」を知らないままに、人口について「多過ぎる」とか「少な過ぎる」とか論じることは可能なのだろうか。
マルサスの人口論における2つの前提
人口論の基本文献として私たちが利用できるのは、イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスの『人口論』である。
マルサスの主張はわかりやすい。「適正な人口数とは、食糧の備給が追いつく人口数である」というものだ。食糧生産が人口増に追いつく限り、人口はどれだけ増えても構わないというある意味では過激な論である。
マルサスの人口論は「人間は食べないと生きてゆけない」と「人間には性欲がある」という二つの前提の上に立っている。
「性欲に駆られたせいで人口は等比級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか増加しない。だから、ある時点で人口増に食糧生産が追いつかなくなり、飢餓が人口増を抑制する」というのがマルサスの考えである。
これは自然観察に基づいている。ある環境内に棲息できる動植物の個体数は決まっている。環境の扶養能力を超える数が生まれた場合には、空間と養分の不足によって淘汰され、個体数は調整される。その通りである。
人間の場合は餓死して淘汰される前に人口抑制がかかる
ただし、人間の場合はもう少しリファインされていて、餓死して淘汰される前で人口抑制がかかる。
困窮の時期においては、「結婚することへのためらい、家族を養うことの難しさがかなり高まるので、人口の増加はストップする」「自分の社会的地位が下がるのではないか」、子どもたちが成長しても「自立もできなくなり、他人の施しにすがらざるを得ないまで落ちぶれるのではないか」といった心配事があると、文明国の理性的な若者たちは「自然の衝動に屈服するまいと考え」て結婚しなくなる。マルサスはそう予測した。