動物との共棲を目指して設立された「動物王国」で人気を集め、作家としても活躍した“ムツゴロウさん”こと畑正憲氏。23年4月5日に87歳で惜しまれつつこの世を去った彼の麻雀の腕前は相当なもので「10日間不眠不休で打ち続けた」こともあるという。ここでは『ムツゴロウ麻雀物語』(中公文庫)より一部抜粋。親交を結んだ阿佐田哲也氏らとの思い出を振り返る。(全2回の前編/続きを読む)

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東京大学2年生の時に麻雀を覚えた

 私は麻雀を、大学2年の冬におぼえた。これはオクテの方である。

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 満州じこみだと威張る父、寮で習いおぼえた兄が相手だった。私はルールブックを読みながらついて行った。たわいもない家族麻雀であり、一荘をこなすのに4時間かかったりした。

 動物学科に入ってから、同級生5人が、すべて打てるので驚いた。さほど上手くはなかったが、実験のしこみをした待ち時間などにヘイを乗りこえて前の雀荘で遊んだものである。金は賭けず、マイナスになったものが、ゲーム代を払うという健全そのものの麻雀だった。

©文藝春秋

 油壷の臨海実験に行って、まず訊かれたのが、麻雀が打てるかということだった。当時の油壷には、娯楽がまったくなかった。松林と海があるだけであった。そこで、所員たちは、夜ともなれば卓を囲むわけである。

 だが、マジメなものもいて、メンバーがなかなか揃わない。揃ったとしても、夜型人間と昼型人間とがいて、すれ違いになったりするのである。夕食を食べてから頭が冴え始めて、朝日が昇るまで実験室にこもるものがいて、周期が合わないのである。

 だから学生がやってくると、嬉しくって仕方がないのである。遊び好きの研究生は、舌なめずりをして待っていた。まだ、北風まである一荘麻雀だった。点数の計算だって、切り上げなしの頃である。

 たまに研究生で打ち手が揃うと、一荘100回を一荘と呼び長期戦になるそうだった。やれるかと訊かれたので、打てますと私は答えた。レートは、千点十円だった。それが初めての、賭けて打つ麻雀であった。東の一局。起家をひきあてた私には、七対子もようの手がきた。どうしたらいいかなと思っていたところ、中盤で有効牌がたて続けに三枚やってきて四暗刻が出来てしまった。トン、トン、トンとリズミカルにやってきたあの感触は今もって忘れられない。無重力状態の中で泳いでいるような気分だった。

 それから病みつきになった。

©文藝春秋

やる以上徹夜であり、死ぬ思いで打った

 眠る時間を割いて打つようになった。

 動物相手の実験はきびしくて、5日間、ほとんど眠らせて貰えないようなこともあった。変化していく命が相手だから、眠ってなんかおれないのである。僅かに、三度の食事の時、食べながら眠るくらいだった。