これはいけない、何とかしなければと、私は牌譜の研究にとりかかったのだった。阿佐田さんのものは、しっとりしていて、やってくる牌をなでさするようにして大切に打ってあった。暴投がないし、ここでカーブを投げるぞという時には、それなりの理由が含まれていた。
“眠っていたはずなのに”と、私はびっくりした。ナルコレプシーという奇病に悩んでいて、打ちながら眠るのはつとに有名だった。
その後、数限りなく打ったが、眠らない阿佐田さんを見たことなんてなかった。顔の色が次第に白くなって、熟睡するとイビキさえかきだすのである。一晩打ち、朝になったらパッチリ目を開き、
「あーあ、よく眠った」
と言われたのには参った。他の三人は、徹夜の疲れをどす黒く浮かべているのに、さっぱりした表情で、さあ、朝ご飯を食べに行こうというのである。
眠っているがしかし、麻雀の目は開いているのである。その証拠に、牌譜は実によく整っていた。見逃しはないし、抜き違えもなかった。
当時の阿佐田さんは、麻雀の口入れ屋みたいな感があった。打てる人材を発掘して、公の場に出そうとしていた。仲間を増やすことで、にぎわいを増やそうとしていた。麻雀新撰組などをこしらえたのも、麻雀を文化の一つにしたかったせいではなかろうか。
みんな阿佐田さんが好きだった
“文化度”ということを言い始めたのも、彼だったと思う。碁や将棋などには昔から立派な譜が残っているので、後からくるものが研究出来る。だから戦闘のレベルが年毎に高くなっていくのである。
麻雀の方は、経験則はあるものの、いい加減であり、「早いリーチはイースーソ」という格言らしきものがあったとしても、実戦ではまったく役に立たない。記録から、何か新しいものを掘り起こさねばならない時にさしかかっていたのである。そこで、道化を買って出た意味もあったのだと思う。
しかし根が作家だから、人を組織するようなことには向いていない。カシラになって号令をかけるのも苦手である。何か具体的なことをし始めると、すぐさまそれが重荷になってしまう、複雑に屈折した心情の持ち主だと私は見ていた。
彼には実務は向いていないのだ。
しかし付き合いはいい方だし、何と言っても包容力があった。たいした話はしないのだけれど、向かい合っていると、暖かいものにくるまれてしまう。一緒にいても、羨ましくなるほど人望があった。戦後の作家の中では、まわりの人に、とび抜けてたくさん好かれた人物ではなかろうか。みんな阿佐田さんが好きだった。