「独りで何も言わずに、消えるようにしていなくならないでね」
海水が引いた後、敷地内には丸太など、どこから流れ着いたかわからないような物が多く残された。
床上浸水した居間にはいられたものではない。玄関にストーブを持ち出し、炊き出しのような食事を作りながら過ごした。
被害を目の当たりにすると、気持ちは荒んでいった。
「敷地に残された瓦礫を蹴るなどしながら、『俺はここの生まれだけど、育ったのは東京だし、友達も少ない。もうこんなところ、どうでもいいや』と捨て鉢になっていました」
そうした時、女性が川端さん宅を訪れた。1月3日のことである。
川端さんより少し上の年代で、面識はなかった。
女性は「お母さんにお世話になりました」と話し始めた。
川端さんが帰郷する2年ほど前に亡くなった母は手芸が得意だった。女性は手芸の教え子のような存在で、亡くなった父母とは懇意にしていたのだという。帰って来た川端さんのことが気がかりだったが、わざわざ訪れるようなことまではしていなかった。女性の家は高台にあり、津波の被害には遭わなかった。
ひとしきり自己紹介が終わると、女性はいきなり「独りで何も言わずに、消えるようにしていなくならないでね」と言った。それが心配で川端さん宅まで来たのだった。
川端さんは心の中を見透かされたような気がした。と同時に、涙が出て止まらなくなった。
荒んだ心を癒されて
女性は何かにつけ気にかけてくれるようになった。川端さんは少しサイズの小さい防寒着を女性にプレゼントした。今後も大きな余震が来ないとも限らず、津波がまた来るとも言われている。避難するようなことがあれば、着てほしかった。
先祖が約170年前に建てた母屋に守られ、母が絆を遺した女性に荒んだ心を癒され、川端さんは代々のつながりという人間の縦軸の中で生かされているのを実感していく。
「イカの駅つくモール」では、災害支援に来た人などに「避難路を確認していますか」と声かけを続けた。そうした行動が防犯活動に役立っていると地元の人々から感謝されるようになり、川端さんは地域社会という横軸の中でも生きていることを実感した。
残念なのは、観光客向けの防災案が被災後も実現していないことだ。
「イカの駅つくモール」は4月8日、物販コーナーだけ時間を限って営業を再開した。
また、ゴングが鳴らないことを願う。
写真=葉上太郎