もっとも、浜田にも言い分はあった。前出の文春記事によれば、彼は小佐野のことを、衆議院員になる以前の千葉県議時代、地元財政の悪化を訴えたことに二つ返事で応じてもらって以来、「オヤジ」と慕ってきたという(浜田は後年の著書で、県議時代に小佐野のもとで不動産関係の仕事に携わっていたと記している。浜田はもともと政界フィクサーの児玉誉士夫のもとで書生をしており、小佐野も児玉から紹介されたという)。このときの渡米も、ハワイにゴルフ場建設を計画した人が金融引き締めで立ち往生し、《この援助をたのむべく、オヤジをわざわざ引っぱりだした》ものと説明していた。
それでも青嵐会の面々からすれば浜田の行動は軽率に見えた。記事中では、衆院議員の中山正暉が《事実とすれば、弱りましたな。ただ、ああいう豪傑だから、つい軽い気持ちでやったんじゃないか》とコメントするなど、仲間たちが遺憾の意を示している。
浜田自身も《「何といわれようと、不肖浜幸、一世一代の不覚でした」と両手をヒザについてがっくり》し、《国際興業の小佐野社主には、たいへん申し訳ないことをした、これだけは何としても書いておいて下さい。オヤジをハワイに引っぱりだした自分が悪かった。/青嵐会とは何の関係もありません。ただ、誤解を生む行動をしたことは青嵐会にたいしても、軽率だった。ただし、私は、誤ち(原文ママ)は二度とくり返しません。ラスベガスにも私は決して参りません》と、やや芝居がかった言い回しながら反省の弁を述べた。
6年後に問題が再燃
結局、このスクープはとくに大きな問題に発展することはなかった。しかし、それから6年後、浜田がラスベガスでギャンブルをしたことは、思わぬ形で取り沙汰され、浜田個人のみならず自民党をも危機に陥れることになる。
口火が切られたのは1980年3月6日、東京地裁においてであった。同地裁ではこの日、ロッキード事件をめぐる裁判のうち、小佐野賢治を被告とする41回目の公判が開かれた。
ロッキード事件とはよく知られるように、アメリカのロッキード社(現ロッキード・マーチン)が、旅客機トライスターや対潜哨戒機P3Cなどを売り込むため、日本の代理店である丸紅および全日空、また児玉誉士夫に多額の工作資金を贈賄し、自民党国会議員と政府高官の買収を行ったという疑獄事件である。1976年にアメリカで発覚するや、日本でも東京地検特捜部が真相究明に乗り出し、同年7月には前首相の田中角栄の逮捕という事態にまで発展した。