いまから50年前の1974年、政治家・浜田幸一がラスベガスのカジノで大敗したというスキャンダルが週刊誌によって報じられた。その6年後、その出来事は思わぬ形で再注目を集めることになった。

 ロッキード事件との関連を疑った検察は「K.ハマダ」なる人物が、実に4億6000万円の大金をバカラで溶かしたことを暴露。国際興業社主の小佐野賢治がロッキード社から受け取った賄賂20万ドルが、その借金返済に充てられたと指摘した。この疑惑について、晩年の浜田は何を告白したのか――。(全2回の2回目/最初から読む

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 ロッキード裁判で思いがけず自身のスキャンダルが暴露された浜田は、その日のうちに自民党本部で記者会見を開き、ラスベガスで50ドルか100ドルぐらいは賭けたと認めながらも、「ロッキード事件と関係するようなことは絶対にない」と否定した。

衆議院予算委員会でやじを飛ばす浜田幸一氏(1988年) ©時事通信社

 それでも浜田は、政界に入る以前より暴力団とかかわりがあったという経歴もあいまって、社会的に大きな批判を浴びる。当時務めていた自民党の国民運動本部長も、スキャンダル発覚から2日後の1980年3月8日には「このまま続ければ自民党や国民への冒涜になる」として辞職、さらに4月10日、時の首相・大平正芳に、議員辞職と自民党からの離党を伝える。

 浜田が議員辞職を決意した理由のひとつには、当時の自民党の厳しい事情があった。このころ自民党では、最大派閥である田中(角栄)派および時の首相・大平正芳を領袖とする大平派(宏池会)を中心とする主流派と、福田(赳夫)派・三木(武夫)派などの反主流派による対立が激化し、党がいつ分裂してもおかしくない状況だった。それに加えて国会は与野党伯仲状態で、大平は政権運営に苦慮していた。それだけに、浜田は自分の問題で党総裁の大平を苦しめてはならないと考え、辞意を固めたという。

「死んでも言えないことがある」

 ラスベガス事件の発覚以来、浜田に対し、野党だけでなく自民党内の反主流派も証人喚問を求めて一致団結した。本人もこれに応じる意向を示していたが、自民党は4月23日に最終回答として喚問拒否を通告する。このことは、翌月、野党が内閣不信任案を衆議院に提出する理由にもなった。

 これと前後して、浜田を離党・議員辞職させるため長時間にわたって説得を続けた自民党幹事長の桜内義雄が、党の総務会でなぜ浜田問題が難しいのかを説明するなかで、「これにはデリケートな問題もあり、死んでも言えないことがある」と述べ、出席者たちが沈黙する場面があった。