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 一体、桜井が口にした「死んでも言えないこと」とは何なのか? これについてジャーナリストの立花隆は、《どうやら浜田が、自分をそれほどまでに追いつめるなら、証人喚問に応じて、「知っていることを全部ぶちまけてやる」といい、ぶちまける内容をあれこれならべたことをさすらしい。それは、児玉、小佐野とさまざまの政治家の関係が中心で、(中略)また、与野党議員の間で多額の金が動く賭けマージャンの実態についてもバラすといったようだ》と記している(『闇将軍 田中角栄の策謀』)。

 実際、浜田は議員辞職後に出した著書『弾丸なき抗争』のなかで、次のように国会議員のあいだでの賭け麻雀の存在をほのめかしている。

涙を浮かべて議員辞職の記者会見をする浜田幸一氏(1980年) ©時事通信社

《俺があれこれいわれた一件については、たしかに、カジノの借金を立て替えてもらったことは事実だ。政治家が公認バクチをやったのが悪いというならば、その非は認めよう。金を一時的にも立てかえてもらったのは軽率だったということも認めよう。(中略)だがしかしだよ、代議士だって人の子だ、メシもくえばバクチもするわな。賭けマージャンや競馬を、一度もやったことがないという謹厳実直居士がどれだけいるというのか。(中略)与野党問わず、俺と同じぐらいのことをやっている政治家はゴマンといる。これ政界の常識なり、だ。政治倫理の確立をいうなら、いまの政治家みんな退陣せなならんのと違うか》

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 先述の大平内閣に対する不信任案は、自民党の反主流派議員の多くが衆院本会議を欠席したため可決され、大平首相は衆院を解散、史上初の衆参同日選挙に突き進んだ。しかし、その選挙中、病に倒れ、投票前の6月12日に急死する。

議員辞職後の人生

 浜田は、自身は出馬をとりやめたこのときの選挙で、テレビ朝日の開票特番に生出演したのが話題を呼び、このあと同局のワイドショーにレギュラー出演するようになる。上に引用した文章にも表れているように、彼のあけすけなキャラクターはテレビ向きだったのだろう。地元での支持も根強く、1983年の総選挙で返り咲いた。そのタレントとしての才能は、1993年の政界引退後、『ビートたけしのTVタックル』などの番組でますます発揮された。

 ロッキード事件での小佐野の公判は、浜田の政界復帰を挟み、1981年の一審判決では懲役1年の実刑、1984年の控訴審判決では懲役10ヵ月・執行猶予3年が言い渡された。小佐野はその後、最高裁に上告するも1986年に死去する。

 浜田は小佐野に対する各判決後の会見、その後の著書でも、ラスベガスでの借金を小佐野に肩代わりしてもらったことは認め、彼にはあとで全額返済したと述べる一方で、そのカネとロッキード事件との関連については自分の知るところではないと一貫して主張してきた。