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≪不動産8億円、金融商品2億円の損失!≫民放全局でレギュラー番組を持ち、フリーアナとして栄華を極めた生島ヒロシ(71)が巨額借金を背負った“年利60%の魔力”

生島ヒロシの借金返済人生#1

2022/11/13

genre : エンタメ, 芸能

 1990年代初頭、TBSから独立すると次々に番組出演が決まり、国内のみならず海外の著名人とも一緒に仕事をするなど、メディアの最前線で活躍を続けていた。しかし華やかに活躍する舞台裏では、約10億円もの巨額の借金を抱えていた。(全2回のうち1回目/続きを読む)

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イケイケどんどんで盛り上がって「次はハワイだ! その次はオーストラリアだ!」

――大学を卒業して1976年、TBSに入局されました。TBSの最終面接の時点で、将来はフリーになることを宣言されていたそうですね。

生島:「日本の終身雇用制度はもう終わりますし、僕は将来ずっとTBSにいるつもりはありません」って生意気なこと言ってましたね。当時の経営者たちは、それを「面白い!」と理解してくださって、僕を入社させてくれました。非常に太っ腹で、素晴らしい方々だったと思います。

©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

――TBS入局後は、数年間はラジオで基礎を磨かれてから、テレビでも活躍されました。どのタイミングで独立を考えられたのでしょうか?

生島:和田アキ子さんの『アッコにおまかせ!』に出させて頂くようになって、番組の視聴率がどんどん上がっていったんです。はじめ一桁台だった視聴率が15%を超えて、20%もクリアして。日曜のお昼でそんなに数字がとれる番組ってなかったんですよ。化け物番組になって、次目標を達成したらハワイに行こう! その次はオーストラリアだ! って、イケイケどんどんで盛り上がってきて。アッコさんとの信頼関係もできてきて。当時はゴールデン番組を担当すると、業務時間外も接待なんかで忙しい。でも、日曜日の昼時の番組を担当すると、テレビを観たりのんびりできる時間も多かったんです。その辺りですかね。周りから「独立したら?」って言われるようになってきたのは。

©文藝春秋 撮影/鈴木七絵

――ご自身というより、周りから話が上がってきたのですね。

生島:「こういう番組あるんだけどどう?」って放送作家の人とか、制作会社の人から具体的に話が出てくるようになったんです。ただ、元々フリー志望だったとは言え、当時子どもが4、5歳。一つの番組があたっても、その後も続くとは限らないじゃないですか。