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 保証をしたオサノはハマダの支払いを引き受けたものの、12月に再びサンズホテルを訪れると、負債の150万ドルを120万ドルに値切った。ホテル側も、日本からの外貨持ち出しの厳しさを理解し、アメリカ国内でのドル決済を条件にこれを受け入れる。

 返済は4回の分割払いとなり、1973年1月に50万ドル、同年4月と7月に25万ドルずつ支払われた。そして残額の20万ドルが支払われたのは、当初の約束の同年10月からやや遅れ、11月3日にずれ込む。それは、小佐野の初公判(1977年7月)の冒頭陳述で「小佐野は一行を率いてロス空港に着き、ラスベガス行きの飛行機に乗り換えるあいだに、ロッキード社の元日本支社長から20万ドルを受け取った」とされた、まさにその日であった。

議員辞職の会見をする浜田幸一氏(1980年) ©時事通信社

検察側の作戦

 公判ではそれまで、弁護側が、小佐野に20万ドルを渡したとされる元ロッキード日本支社長のアリバイを主張して一時優勢に立っていた。検察はこれを挽回すべく、20万ドルの受領を、そのカネの使途をあきらかにすることで証明するという作戦に出たのである。そのために、サンズホテルの「K.ハマダ」に対する個人別貸付勘定元帳カード、補助元帳、20万ドル受領書、同ホテル副社長の供述書、「K.オサノの取引」と題する書面など、多数の証拠によって綿密に立証を行った。

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 この時点で検察は「K.ハマダ」を浜田幸一と断定することは避けたものの、浜田が小佐野が率いるラスベガスツアーに数回同行していることはこれまでの法廷であきらかにされており、サンズホテルでの借金主が浜田であることも、アメリカ司法当局の捜査で確認されていた。

 出入国記録では、小佐野は1972年8月~74年11月の2年あまりのあいだに計10回、ハワイ、アメリカ本土(主としてロス、ラスベガス)へ国際興業グループや政財界人とともに海外出張しており、浜田はこのうち、疑惑を持たれた1972年10月を含め、1974年4月まで計数回同行していた。文春がスクープしたのは、小佐野一行との最後の渡米だったことになる。