「レフトのあたりが地震で地盤沈下を起こしているんでしょうね。それまでどんなに雨が降っても水たまりができなかった場所ですから。グラウンド周りはまだ断水が続いているんですが、グラウンドに水を撒く際に使うマウンドの後ろにあるスプリンクラーは水が出る。いったい地面の下の水道管はどんな状態なのかわかりません」
「高校生の部活のためにそこまでする必要があるのか」という声も…
能登には自宅が崩壊して避難所生活を強いられている人が多数いて、仮設住宅の建設も始まったばかり。
そんな状況で能登を離れ、山梨で活動を再開した野球部に「優先順位がおかしい」「復興もままならないのに高校生の部活のためにそこまでする必要があるのか」「どうして野球部だけ」と不満の声をあげる人は被災地にもいた。
たしかに、山梨で練習を再開した際には地元の自治体が炊き出しを準備してナインのお腹も満たし、中村監督の元には出身大学である明治大学野球部から器具や義援金のサポートも集まった。1月26日にセンバツ出場が決まって以降は、山梨の日本航空高校と合同練習や練習試合に取り組んできた。誤解を恐れずにいえば、能登よりも恵まれた環境だった。
しかしセンバツが終わるとメディアの関心も徐々に薄れ、現在は震災直後よりも困難な環境に置かれている。寶田一慧主将は甲子園からいったん出身地の福井県に戻り、中学時代に所属した鯖江ボーイズで自主練習を重ねた。寶田主将は言う。
「センバツで悔しい思いをして、夏に向けた戦いがいよいよ始まるというところで3週間も(合同練習できない時間が)空いてしまった。リスタートが大事なのに、そのリスタートが切れないもどかしさがありましたし、仲間と野球ができないことで寂しい感情もありました。だけど春の悔しい気持ちだけは忘れないようにしていました」
三塁手の荒牧拓磨も福岡の実家に一度戻り、公園で父親とキャッチボールをするなどして、体がなまらないように自主練習に励んだ。荒牧は4月14日に福岡から新幹線で京都へ向かい、さらにサンダーバードで敦賀、そして北陸新幹線で金沢まで移動して仲間と合流し、そこから中村監督の運転するバスで能登に帰ってきた。
荒牧は3月の練習試合で、新基準の低反発バットで柵越え本塁打を放ったチームの主砲だ。幼少期から日本舞踊を嗜んでいて軸のぶれない打撃が強みだが、センバツでは4打数無安打と結果を残せなかった。
「福岡に帰っている時は野球を始めた小学生の頃からお世話になっていた方々に挨拶して激励の言葉をかけていただきました。ただその言葉は嬉しくても、自分の中では晴れない気持ちがあった。もう一度、夏に向けて気持ちを切り換えたい」