日本航空石川のナインは被災者である。だがベンチ入りメンバーのほとんどは他県からのいわば「傭兵」で、震災の日は実家に戻っていたため地震や津波の恐怖に震え上がることはなかった。
さらに近隣の住民が日常生活もままならない状況の中で、彼らは能登を離れ、野球に集中する環境を与えられた。そんな自分たちが「被災地の学校」として、全国からの支援や声援を受けて甲子園の舞台に立つことについて、後ろめたさに近い複雑な感情も芽生えた。寶田一慧主将が話す。
「僕たち自身は地震を経験していないのに、被災者の気持ちを代表するような立場で期待を背負って野球をすることに、理解が追いつかない選手もいたのは事実です。だけどそこは、福森が被災者としての気持ちをミーティングで話してくれたりして、だんだんとチームがまとまっていきました」
生き埋めになった祖母を助け出し、裸足でおんぶして高台まで避難
主将が名前を挙げた福森誠也は、北陸や関西など県外出身者が多いベンチ入りメンバーの中にあって、数少ない能登(七尾市)の出身だ。福森は地震の瞬間は両親と共に輪島市の祖母宅にいた。家の中のあらゆるモノが落ちてきて、瞬く間に生き埋めになった祖母を福森が助け出し、裸足のままおんぶして高台まで避難した。
「被災地の思いを背負って甲子園に挑む」というメディア好みのストーリーの主人公として、甲子園でも報道陣に追いかけまわされた。しかし私は、彼になかなか近づく気になれなかった。大勢の記者に囲まれたり、マイクを向けられたりした彼が、困惑するような表情を浮かべていたからだ。
ある時、2人きりで話すと、「僕自身に記憶はほとんどないんです」とボソッと話し、「震災を経験したことが自分の人生にプラスになったとか、今はそういうことは考えたくない」と口にしていた。
センバツでは、20人のベンチ入りメンバーに入り、常総学院との試合では伝令役でマウンドに走った。福森は震災からの日々をこう振り返る。
「ずっとメンバーに入りたいと、それだけを考えて頑張ってきました。センバツは試合に出場することができず悔しい結果だったんですけど、地元の見てくださった方々から『よく頑張った』『いい戦いだった』と言っていただけました。実家のあたりは復旧がまだまだなので、自主練習も、近所のネットのある場所でネットスローをやるぐらいしかできませんでした。最後の夏にもう一回、甲子園に出るためにコツコツ頑張って行きたい」
「本来、福森は明るいキャラクターでチームのムードメーカーなんです」と中村監督は言う。震災からおよそ3カ月が経過し、甲子園も経験した福森は、かつての明るい笑顔を取り戻していた。