私は驚くより、笑い出してしまった。
「ね、笑っちゃうでしょ。こっちは、とっちめるつもりで待ち構えていたのに、ですよ」
「いないと」
「そう、もうガックリしちゃいましたよ。親父、あの世でもか、ってね」
彼はガックリしたと同時に、父親への怨みつらみも、どうでもよい気がしてきたと言う。
「本当に仕方のない親父だな、と思ったら、憑き物が落ちたような感じがしました」
この話を、「あの世」や「死後の霊魂」などの道具立てで解釈するかどうかは、聞いたものの勝手である。
しかし、この話で私が感じ入ったのは、それとは別なことである。彼は、恐山まで来て、やっと父親を赦(ゆる)せたんだな──私の感慨はそこにあった。
「わけのわからない、とても不思議な経験でした」
お互いに何本かの電車をやり過ごした最後に、彼はこう言った。
「何か不思議な気持ちになって、恐山を出て、レンタカーで空港に向かいました。そしたらね、あの恐山の山道を抜けていく間に、突然涙が出て来るんです。別に悲しいわけでもなんでもないのに、でも、止まらない。空港に着くまで、ずっと泣いてました。わけのわからない、とても不思議な経験でした」
思うに、「赦す」ことは難しい。なぜなら、単に相手を赦すのでは、赦しにならないからだ。
本当に人を赦すと言うなら、「赦す自分」を赦せなければならない。辛い経験をしたにもかかわらず、敢えて赦す。その赦す自分を赦す。
ついにそれができた者は、おそらく、辛かった自分の体験を、他人に「笑い話」のように話せるようになるだろう。あの彼のように。