――何度か賞をとっていると聞くと順調な歩みのように思えます。当時は漫画で食べていけると思っていましたか。
市橋 漫画賞といっても各誌が定期的に募集する新人賞の下の方で、特にすごくもないんです。実際、いくつかの漫画誌で何度か賞をもらっても再デビューするまで、その後3年近くかかってますからね。
「コミックビーム」(KADOKAWA)での初連載も1年強で終わり、単行本にもなりませんでした。ただ、ありがたいことにその直後から、有名雑誌や上場企業からイラストやらコラムやらの仕事をいただけ、他の漫画誌でも連載が決まったので、とにかく精一杯、目の前の仕事をこなしていました。とはいえ、一貫して年収300万円にも満たない最下層の素人同然の漫画家でしたが……。
なので、自分のキャリアが軌道に乗りそうだなんて、考えた事もありませんでしたし、むしろ、「いつかこんな日も終わって、仕事がなくなるんだろう」という危機感ばかりでした。結局、今は連載がなくなったので、その通りになりましたが……。“廃業時期”を逃した漫画家は悲惨です!
野球選手への「戦力外通告」にツラくなる
――ということは、振り返ると“廃業時期”があったと考えているんでしょうか。
市橋 これは非常に難しいのですが、私の場合、超低空飛行が20年続いたので、常に廃業すべきタイミングだったとも言えます。ただ連載などが続いていたので、自分から廃業を決断できる感じでもなく、結局現在の状況になってしまいましたね。毎年、プロ野球選手の戦力外通告が報じられる時期になると自分のことのようにツラくなります。
――ただ、長年のキャリアでいろんな出版社や編集者と関わってきて、休刊などのほかに不運や不幸があったと思います。なかでも印象的なものはありますか。