1ページ目から読む
2/4ページ目

お袋は姉が司法試験を受けることに反対したのですが、親父は何も言わなかったそうです。むしろ姉が弁護士を目指すことを応援していました。自由に学べと言っていました。

嘉子のすぐ下の弟・一郎も、しっかり者の長男だった

長男の一郎兄さんが、武藤の家では跡継ぎになるはずでした。一郎兄さんは姉の次にしっかりした人でした。長男なので、姉も一郎兄さんには一目置いていて、弟ながら頼りにしているという感じでした。

私は親父から小遣いをもらわないで、この兄貴から小遣いをもらっていたのです。でも兄は威厳がありました。たとえば靴を玄関で乱雑に脱いでいた時、親父もお袋も何も言わないけれど、兄貴は「おい、泰夫、何だこの靴の脱ぎ方は」とビシッと言うのです。「ちゃんとなおせ」って叱られましたね。

ADVERTISEMENT

写真があります。姉が芳夫さんと結婚する前に撮影した写真です。きょうだいがそろっています。二人の間にいる小さいのが私です。

麻布の家には、同郷の書生が入れ替わりながら三人くらいいたそうです。芳夫さんはその中の一人。明治(大学)の専門部を出て東洋モスリンという会社に入っていました。武藤家の書生をしていたのは明治の学生の時のことです。芳夫さんのおじさんと私の親父は中学が一緒だったんですよ。丸中(旧制丸亀中学)で同級生だったそうです。

父に好きな人を聞かれ「和田さんがいい」と答えた嘉子

当時、姉は弁護士になったから、嫁の行き先がないと親父やお袋が心配したのです。そこで親父が「お前誰か好きな人いるのかい」、と聞いたら姉が「和田さん(芳夫)がいい」と言ったのです。

芳夫さんはその頃にはもう就職していましたから、家を出て独立していました。武藤家にはたまに遊びに来るくらいで、付き合っていたわけでもないそうです。

姉から意外な名前が出たことに親父もお袋も驚きました。というのは、芳夫さんは書生の中でも一番おとなしくて静かだったからです。活発な姉とは正反対でした。それから東洋モスリンに勤めていた時は、肺を悪くして一年くらい療養していた時期があったようです。