裁判官になって3人の弟やわが子を養った「とと姉ちゃん」
姉が裁判官になったのは、私たち家族を食べさせるためだったと思います。それまで明大の先生もしていましたが、姉から聞いたところによれば、当時の大学の講師は給料が安かったんだそうです。私たちの学費も必要でしたから、大学の仕事では一家を養えなかったのです。それに、あの当時は最高裁に入る、国の公務員になるというのは、とても大きなことでした。生活が安定するということでもあります。それで最高裁に入ったのだと思います。
結局、私の大学の学費も姉が出してくれました。もちろん奨学金ももらいましたがね。
NHK朝ドラに「とと姉ちゃん」ってあったでしょう。私にとっては父であり母であり姉でもある。まさに「とと姉ちゃん」でした。
私は東京大学で林業を学んで昭和27(1952)年に卒業し、林野庁に入りました。各地の営林署を回り、それから民間企業に移りました。転勤族だったので、裁判官になってからの姉とはすれ違いになりました。裁判官としての活躍は、他の方が詳しいでしょう。ただ、私が札幌にいた時に、姉が北海道まで旅行で来たことがありますよ。
姉は、兄の一郎を除くと、きょうだいの中で一番早く亡くなりました。まだ69歳でしたから。弟たちはみんな80まで生きました。それだけに早く亡くなったことが残念です。
※『三淵嘉子と家庭裁判所』編集部註:武藤泰夫氏は令和3(2021)年に93歳で他界しました。今回の記事は平成28(2016)年~令和元(2019)年にかけて行った取材内容を元に再構成し、ご遺族の了承を得て掲載するものです。
NHK解説委員
1970年生まれ。NHKで社会部記者として司法クラブで最高裁判所などを担当。司法クラブキャップ。社会部副部長などを経て現職。著書に『気骨の判決――東條英機と闘った裁判官』(新潮社、2008年)、『家庭裁判所物語』(日本評論社、2018年)、『戦犯を救え――BC級「横浜裁判」秘録』(新潮社、2015年)がある。