終局後の取材に対して、藤井は囁くような早口で言った。長考の末のあの封じ手から狂いが生じていたようだった。正確無比の藤井の読みを狂わせたものは何だったのか。あるいは羽生の存在なのか。これで2勝2敗。七番勝負のタイトル戦において藤井が4戦を終えた時点でタイに持ち込まれるのは初めてのことだった。棋士のピークは20代半ばまでだと言われる。若さと強さがほぼ同義であるこの世界において、52歳の棋士が現在のトップランナーに伍している――。その事実が森内を含め、関係者たちを驚かせていた。
「何かありますか?」森内に感想戦への参加を促す
まもなく対局室では感想戦が始まった。羽生が「こうでしたか?」と問い掛け、それに藤井が応える。
「ああ、そうですか。なるほど……」
羽生が頷き、また問う。その日の勝敗や年齢の上下にかかわらず、第1局から感想戦はその構図で進んでいた。途中、羽生は立会人席にいる森内にも声をかけた。
「何かありますか?」
感想戦への参加を促したのだ。その姿は森内が10歳の頃から知っている同い歳の羽生のままであった。羽生は常に質問者であり、探究者であった。
森内は羽生のライバルと言われてきた。タイトル戦を争うこと16度、激しくぶつかり合い、同じ時代を戦ってきた。だが、世の中が注目する藤井との王将戦において、森内には同世代の羽生を後押しするような気持ちはなかった。自分を重ねることも、感情移入することもなかった。それが棋士というものだった。
羽生はひとつの対局をそれ以上の何かに変えてくれる存在
一方で、もう40年以上前から競い合ってきた羽生が、いまだ羽生のままであることには胸を熱くしていた。そして、自らの棋士人生に少なからず彼の存在が影響していることを実感せずにはいられないのだった。
常に一対一で決着をつけなければならず、勝者と敗者の別しかないこの世界において、ひとつの対局をそれ以上の何かに変えてくれる存在──それが森内にとっての羽生だった。
もっとも、そう考えられるようになるまでには随分と時間が必要だった。幾多の敗北と、そこから立ち上がるための勝利が必要だった。森内はある意味、特別な光を放つ羽生に対して、最も劣等感を抱いてきた棋士なのかもしれなかった。