カメラでは映すことのできない思い。

 棋譜には刻まれることのない熱情。

 ノンフィクション『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)は、羽生善治や藤井聡太らトップ棋士が駒をぶつけ合う、盤上の一手に潜むドラマを活写している。

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 4つのノンフィクション賞を獲得したベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』の著者・鈴木忠平氏の最新刊から、深浦康市九段とのエピソードを一部抜粋して紹介する。

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 2007年9月、深浦康市は東京から下りの電車に揺られていた。第48期王位戦。3勝3敗で迎えた第7局、その舞台となる神奈川県秦野市へ向かっていた。都内から2時間ほどの道中、ある思いが何度も脳裏をよぎっていた。

 これが最後のチャンスかもしれない……。

 深浦は35歳になっていた。タイトルはいまだ手にしていなかった。20代前半から半ばにかけてピークを迎えるといわれる棋士の世界で、これから何度もチャンスが訪れるとは思えなかった。このタイトル戦に辿り着くまでの道程の長さを思えば、なおのことであった。

長崎県佐世保市出身の深浦康市九段 ©文藝春秋

深浦にとって初めてのタイトルをかけた一局

 1990年代から2000年代の将棋界において、タイトルを狙うということはほとんど羽生善治と戦うことを意味していた。だが、どの棋戦においても羽生がいる場所へたどり着くまでには幾多のハードルがあった。あと一歩というところまで迫っても、森内俊之や佐藤康光といった羽生世代の強豪が門前の仁王像のように立ちはだかっている。深浦は何度も道半ばで跳ね返されてきた。勝率が七割を超えた年でもタイトル戦の挑戦権は手にできなかった。だからこそ、やっとの思いでつかんだこのチャンスを逃してはならないという思いがあった。

 やがて対局場となる鶴巻温泉が見えてきた。老舗旅館「陣屋」は秦野市の住宅街にひっそりとあった。1万坪の庭園が庵を囲み、非日常の静けさを生み出している。半世紀以上前には「陣屋事件」の舞台となった。名棋士、升田幸三をめぐる対局ボイコット騒動である。そこにいるだけで将棋史を感じることができる対局場は深浦の気持ちを高揚させた。