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 敗れた後、深浦はすぐに次のチャンスがあるだろうと考えていた。だがチャンスは訪れなかった。その後、10年以上もの間、檜舞台に立つことさえできなかった。その雌伏の期間を経て、深浦の将棋は厚みを増していた。他の棋戦も含めて羽生との対戦成績はほぼ五分であり、その希少な存在感から「羽生キラー」と呼ぶ声も出始めていた。そんなタイミングでつかんだタイトル挑戦権。ここまで3勝3敗という星が示すように、羽生とがっぷり組んでいる感触があった。

 自分を見失ったあの頃とは違う。羽生は自分たちと同じ生身の棋士であり、マジックの正体がどんなものであるのかも今なら分かる――。

いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)

戦いの最中に浮かんだ、故郷の人々との忘れじの約束

 午前9時、陣屋の庭園に臨む厳かな対局室で深浦は初手を指した。歩を突き、角の道を開いた。地に足のついた一手であった。

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 対局1日目は睨み合いのまま進んだ。後手番の羽生が飛車を振ったのに対し、深浦は穴熊と呼ばれる堅守の形に構えた。急戦も頭をよぎったが、じっくりと向き合うことを選んだ。焦るな――。そう自分に言い聞かせた。陣屋決戦は最終局らしい重たい緊迫感を保ったまま封じ手となった。

 相模の夜、深浦は夕食を終えると、関係者が集っているという宴会場に顔を出した。ちょうど十五夜の頃であった。夜空にくっきりと丸い月が浮かんでいた。縁側には月見団子が並べられ、秋の気配を感じさせる風が頬を撫でる。張り詰めていたものが束の間、解き放たれていく。ふと胸に去来するものがあった。

 泣いても笑っても明日、決着がつく。もし敗れれば一生タイトルに縁のないまま終わるのかもしれない……。戦いの最中に浮かんだのは、ここに辿り着くまでの長い道程と、故郷の人々との忘れじの約束であった――。