カメラでは映すことのできない思い。

 棋譜には刻まれることのない熱情。

 ノンフィクション『いまだ成らず 羽生善治の譜』(文藝春秋)は、羽生善治や藤井聡太らトップ棋士が駒をぶつけ合う、盤上の一手に潜むドラマを活写している。

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 4つのノンフィクション賞を獲得したベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』の著者・鈴木忠平氏の最新刊から、米長邦雄永世棋聖とのエピソードを一部抜粋して紹介する。

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 日本で初めてのプロサッカーリーグが開幕した1993年、7月20日の夕刻のことだった。新宿の高層ビル群にそびえる京王プラザホテルには夥(おびただ)しい数の人々が出入りしていた。シャンデリアが煌(きら)めく大広間に正装した紳士淑女が集結していく。棋界の第一人者、米長邦雄の名人就位式のためだった。

49歳11か月で悲願の名人になった米長邦雄 ©文藝春秋

俳優から音楽家まで、各分野の第一人者が就位式に顔を揃える

 山村英樹は大広間と来賓用控室の間を行ったり来たりしていた。毎日新聞社学芸部の記者になって8年目、山村は名人戦主催社の担当記者として、就位式の運営を任されていた。式の進行を見ながらゲストを次々と登壇させていく。慌ただしさと緊張感が山村の体温を上げていた。空調の効いたホテル内でもワイシャツの下が汗ばんでいるのが分かった。

 もう何往復しただろうか。開宴から数分、山村はひとつ息をついて控室の扉をノックした。

「ミワさん、そろそろお願いします」

 うっすらと汗を浮かべて入ってきた山村を見て、歌手の美輪明宏が同情の視線を投げた。

「あなたも大変ねえ……」

 棋士は名人や竜王、王将などのタイトルを獲得すると主催新聞社の仕切りで就位式を行う。主役である自分と縁のある来賓やメディアを呼んで晴れ姿をお披露目するのだ。それがタイトル戦の宣伝になる。どの就位式も華々しかった。だが、史上最年長、50歳で名人位に就いた米長のそれは桁違いだった。フットボールコートほどもある宴会場はグラスとグラスが触れ合わんばかりの人で埋めつくされていた。その数およそ1800名。一般客に加えて政治家や実業家、俳優から音楽家まで各分野の第一人者が顔を揃えていた。

棋士の枠を飛び越えて世間に認知され、棋界の顔に

 冒頭、アサヒビール会長の樋口廣太郎が挨拶に立つと、鏡割りには土俵の鬼と言われた元横綱の初代若乃花や歌舞伎の十二代目市川團十郎らが並び、その絢爛ぶりは棋界史上最大と言っても過言ではなかった。背景には50歳名人に対する社会現象とも言える熱狂があったが、何より米長の人間的な魅力によるところが大きかった。タイトル19期を誇る米長の才気は盤上にとどまらず、突出した社交性と旺盛な好奇心によって幅広い人脈を築いていた。

 山村は学芸部の記者になる前から米長のことを知っていた。まだ支局にいた頃から、週刊誌に連載されていた「米長邦雄の泥沼流人生相談」というエッセイを読んでいた。端正なマスクから漂う知的なイメージに加えて、溢れ出るユーモアと毒は棋士の枠を飛び越えて世間に認知されていた。米長はまさに棋界の顔であり、人間味の塊であった。

 山村が担当記者になったばかりの頃、取材を申し込むと、緊張する電話口でこう言われたことがあった。

「明日の朝8時にうちに来なさい」