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 翌年に控えた防衛戦への決意表明に会場から拍手が湧き起こった。だが、スピーチのヤマ場はそこからだった。米長はひと呼吸おいて会場の一隅を指差すと、誰も予想しなかった発言をしたのだ。

「これは私個人の心配事になりますが……来年はあれが出てくるんじゃないかと」

 会場中の視線が米長の指差した先へと向けられた。そこにいたのはひとりの若者だった。羽生善治。ややサイズの大きな背広を着た22歳の棋士は突然の指名に驚いたような顔をして、辺りをきょろきょろと見渡した。来期の挑戦者を名指しするという米長のリップサービスと羽生の青年らしい反応に会場中がどっと沸いた。

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若き日の羽生善治 ©JMPA

なぜ米長が就位式の場で羽生を指名したのか

 山村は舞台袖からその様子を見ていた。微かな違和感があった。確かに羽生は最も注目される棋士の一人だった。この年、四冠王になり、7つあるタイトルのうち半数以上を手中にしていた。これからの将棋界を牽引する存在ではあった。ただ、会場にはその他にも名だたる棋士たちがいた。史上最年少で名人となり、現在も王将位である谷川がいた。さらには王位を獲得した郷田真隆、佐藤康光ら羽生と同世代の強者たちの姿もあった。その中で羽生を公開指名するというのはよほどの確信がなければできないことではないか。あるいは、この発言の中にも駆け引きがあるのだろうか。

「――あれが私のクビを取りにくるかもしれない。ただ、たとえ取りに来ても私は大丈夫です」

 米長の言葉に再び会場が沸いた。50歳の最年長名人と22歳の新たなスターのタイトル戦は世間が待望するカードには違いなかった。だが、山村は世間が思っているより実現は難しいと考えていた。将棋の世界は冷酷である。米長に挑戦するためには、羽生は1年かけてトップ棋士10名が集うA級順位戦を勝ち抜かなければならない。はたして、そう上手く運ぶだろうか。山村は内心、首を傾(かし)げていた。何より、なぜ米長がわざわざ就位式の場でそんな発言をしたのかが最後まで疑問だった。

羽生は微笑みながら、真っ直ぐと壇上の米長を見つめる

 その時だった。山村の目を釘付けにした光景があった。羽生の表情である。指名された瞬間にはびっくりしたような顔をしていた22歳が笑みを浮かべていたのだ。誰もが驚いた米長の発言を、会場中の誰よりも冷静に現実的に受け止めているようだった。普段は若者らしさが先に立ち、顔にはあどけなさの残る羽生だが、時折、全てを見通したような確信的な表情を見せることがあった。無邪気と老成が表裏一体となったようなその温度差が、羽生という人物の印象をつかみどころのないものにしていた。

 熱狂の宴の中、羽生は微笑みながら真っ直ぐに壇上の米長を見つめていた。

 私もそのつもりでおります――まるでそう言っているかのような眼差しだった。