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「最後のチャンスかもしれない」羽生善治とフルセットで迎えた最終局、“35歳の挑戦者”深浦康市の脳裏にあったこと

『いまだ成らず 羽生善治の譜』より

2024/05/27

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 読書

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 深浦にとって初めてのタイトルをかけた一局、第48期王位戦第7局は翌朝、始まった。立会人や主催関係者が顔を揃えた対局室には、まばらになった蝉の声が聞こえていた。振り駒の結果、先手は深浦となった。どう指すか。挑戦者は対面に座す一つ歳上の羽生を見つめた。もう10年以上もこの世界のトップに君臨する王者を前に、自分の心が平静を保っているかどうかを確認した。深浦には苦い記憶があった。初めてタイトル戦に出た11年前、とてつもなく巨大な羽生の存在を前に自分を見失ったのだ――。

多くの棋士の「壁」になってきた羽生善治九段 ©文藝春秋

周囲を驚かせる初手に解説者や観戦記者から厳しい声が

 1996年夏の第37期王位戦、深浦は挑戦者決定リーグを勝ち抜いて、当時、七冠制覇を成し遂げたばかりの羽生に挑んだ。24歳、まだ順位戦C級2組に属していた深浦は突然、狼の群れの中に紛れ込んでしまったような心境だった。そして開幕局、先手番となると、多くの関係者が見つめる中、周囲を驚かせる初手を放ったのだ。

 深浦は左端の歩を突いた。「9六歩」と呼ばれるその一手はほとんど前例がなく、定跡からも外れた奇襲であった。ただ、王者はまったく揺るがず、第1局は完敗に終わった。終局後、深浦は多くの批判に晒された。七冠制覇のスターを前に、タイトル初挑戦者が指す初手としてはあまりに奇を衒(てら)いすぎている――解説者からも、観戦記者からも厳しい声を浴びせられた。

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雌伏の期間を経て、羽生との対戦成績がほぼ五分に

 無論、深浦としても根拠なく指したわけではなかった。女流王将の林葉直子が指した前例なども研究していた。その後の駒組も練っていた。だが、なぜ端歩を突いたのか――その根っこをたどれば、羽生の存在に行き着いた。七冠独占という前人未到の記録をつくった王者の指し手は「羽生マジック」と呼ばれていた。相手を惑わせ、局面をひっくり返してしまう中終盤の一手。それに翻弄されて敗れる棋士を深浦は何人も見てきた。そのためか、いざ羽生とのタイトル戦を前にすると、いつものように指していては勝てないという意識が膨らんできた。その結果、辿り着いたのが奇襲であった。つまりマジックに抗おうとして自分を見失ったのだ。そのことに気づいたのは初挑戦に失敗して、しばらく後のことだった。